無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

ripped, wrapped and trapped 02

このblogは結果としてひとりのアーティストをずーっと追い掛ける格好になっている。結果として、というのは当初はここまで話を絞るつもりもなく様々な事を書いていくつもりだった。何より、始めた当初は書く内容は1ヶ月分位だろうと見立ていたのだ。それ以降書く事があるかどうかはわからなかったし、色々な事について語る方が現実的に思えた。

ところが書き始めてみると、書いていないテーマが次から次へと見つかっていった。そうなってくると、やっぱり1人の人について語り倒すblogにするのが適当かなと思うようになり、その他の話題については余所に書くようになった。

つまり、極端な言い方をしてしまうと、こうしたくてこうなった訳ではない、という事だ。いつの間にかこうなってしまっていた。或いは、自分は実はこうしたかったのだと発見したともいえるかもしれない。

1人のアーティストの活動を包括的に追う、というのは"今時流行らない"のかな。気にした事がないのでよくわからないが、これだこ切り売りとつまみぐいが隆盛になってくると、まとめ売りとフルコースは存在すら忘れられているのかもしれない。

各個のニーズに応えようとすると、どの分野でもジャンルの細分化、コンテンツの細分化が始まる。音楽については、CDと携帯機器が技術的にその風潮を後押しした訳だし、お陰でその都度新しい層を開拓してきた。それ以上に離れていく層も増えていったが。

パーツにまで細分化されていった世界では、購入行動はそのまま嗜好の反映である。裏を返せば、我々は常に選択を迫られている事になる。これよりこっちの方が好きですか、それともこちらですか、と間断無く問われ続ける。確かに、精度は上がる。悪い事だとは思わない。

しかし、私にはあんまり楽しい事のようにも思えない。面白さ、楽しさの根源とは、異質だと思っていたもの同士が繋がり合う事である。いわば統合のプロセスだ。このBlogの成り立ちそのものである。あの話を始めるとこの話も出てくる、するとあの曲についても触れねばなるまい、となればこういうテーマも浮かび上がってくるなぁ―分析的にヒカルを切り刻んでいるようにみえてる向きも在られるかもしれないが、それは文章の細部の話であって、blog全体としては宇多田ヒカルというアーティストの全体像を組み上げていく過程になっている。何故そうなっているかといえば、こっちの方が面白いからだ。

だから、切り売りと細分化はチャンスでもある。パーツ毎にラベルが貼られ、それに対する反応も細分化され提示される。曖昧さが消える事により、市場の反応という意味では随分精微になったなぁと有り難く思う。細かく分けられれば分けられるほど、統合プロセスに与る素材は増えていく。有り難い事だ。

つまり、私の視点からみれば、細分化は歓迎なのである。細部がみえればみえるほど、全体像がより精確に把握できる。分析と統合のし甲斐があるというものだ。細分化は統合の為のプロセスだなんて何だか意外な結論に思えるかもしれないが、それこそが異質だと思っていたものが繋がり合うプロセスな訳である。やっぱり、面白い。