無意識日記々

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balance and timings

世界はバランスとタイミングで出来ている。動力学的な世界観から如何にして平衡状態が生まれ得るか。動の中の静、或いは動が生み出す静か。バランスが保たれたり危うかったりするのは、万物が流転する中で不変であろうとする意志がはたらくのだとすれば、意志とはタイミングである。右に傾いたその瞬間に左に押さねばならないし、左に傾いだ時に右に引っ張らねばならない。今日のしろくまカフェちゃんと録画出来てるかな。あのパンダくん他人とは思えないよ。あのだらしなさは。いや全く関係なかった。話を戻す。(←これがバランスである。タイミングは悪かった。)

光の歌、歌い方は、まるで声が何らかの理想に縋るような、寄り添っていくようなイメージがある。声という不安定な物理的実体には決して辿り着けない何か不変且つ普遍の構造物の周りに纏わりつくような、そんなイメージがある。だから切ない。

彼女のビブラートの肌理が細かい、つまり行って帰ってくる周期が短いのはそれだけ強い力でその"心"に声を引っ張っているからだ。機械で純音を出す事は容易い(いや、本気で考えたら難しいだろうけど、取り敢えず)が、人の声のビブラートはそね揺らぎ、バランスとタイミングによってその"純"な"心"を表現しようとする。物理的なバランスの中で、理想は再び心の中で具現化する。心が心として心の中に再び立ち現れる為には、実体は示唆の集合体でなくてはならない。そして、延々と示唆の連続でなくてはならない。だからこそ実体であるともいえる。

光の声の説得力は、だから、当たり前過ぎる結論だが、その心にある。技術的な到達点だけがモチベーションなのではない。理想と純と心を知る者の責務として、その声を振り絞らねばならない。

そりゃあ疲れる。

何を以て、何をしてこの疲れるモチベーションを充填させるか。これはまだまだ課題の途中である。夏休みの宿題でいえばまだ夏休みの友の目次を眺めた位でしかない(今でもあるのだろうか)。さしあたって今は人間活動に専念しているが、まず自分が唄う姿が未来のどこかに必ず在って、という前提が重圧である。自分のモチベーションの有無が二の次になる妙な状況。ここから何をどうすればいいのか。大事なのはバランスとタイミングだ。信じ込み過ぎてもいけないし、疑ってばかりで前に進めないのもいけない。然るべき時に然るべきやり方でまたマイクを握らなければ同じ事の繰り返しである。運命から離れてみる気分と、それでも控えるself-prophecy。誰か代わってくれないか、という気持ちと私以外の誰が、という気持ちが危うくバランスをとっている。それがまた声に深みと広がりを与える。どう転んでも歌手なのだ光は。

あとは、それがまたいつなのかというタイミングだけである。歯車が滑らかに回るか軋み始めるか、流石にまだまだわからない。


何が言いたかったのかよくわからないエントリーだったが、たまにはこういうのも書いてバランスを取るのが私にとってはいい。今宵はそういうタイミングだったのであった。