無意識日記々

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世界の顔色を変えたたった五文字

歌詞が格別に強烈だ。真夏の通り雨

花束を君にのフルサイズは、テレビバージョンを通して全体像への期待は線型で、果たして実際期待通りの感動的な楽曲に仕上がっていた。月曜日に放送されるやや長いバージョンのお陰でもあるが。今まで、テレビサイズだけを聴いて綴ってきた感想は、そんなに的外れでもなかったろう。

しかし、真夏の通り雨に関しては、既述の通り、「これはフルサイズで聴かないとわからない」と感じていた為、どうにも私の書き方は歯切れが悪かった。タイトルと、聞こえている場面だけで判断したものかと。

繰り返しになるが、『真夏の通り雨』というタイトルを見た時、ヒカルがメッセで触れていた「雨のいいところは、いつか必ずやむってことさ。そのうちね。」というイーヨウの言葉を私は思い出していた。通り雨というからには、やむのを待っていて、やんだあとの事が歌われているのかと。

そうではなかった。

『降り止まぬ 真夏の通り雨

そういうことか。劇的。

私は、この歌に関しては、何かたった一言で劇的な価値転換があるかもしれない、「真夏の通り雨」に、何か違った意味が付加されるかもしれない、と怯えていた。躊躇していた。なるほど、前に一言付け加えるのか。たった一言、このたった五文字で景色が激変する。降り止まぬ。通り雨"なのに"止まない、とは。嗚呼、言葉を失う。

それがあってからのエンディング、『ずっと止まない止まない雨に ずっと癒えない癒えない渇き』なのだから心動かされるなという方が無理だ。嗚呼、嗚呼。



語りたい事が山ほどありすぎて整理がつかないや。

もう、なんだろうね、この圧倒的なスケール感。この星ごと包み込むような包容力。せっかく5年間人間活動に勤しんできたのにますます人間離れして化け物じみてくるという本末転倒な凄まじい歌に対する才能。天才を超えた天才。「16歳なのに凄い」と17年前は言っていたが、今や「ただの人間なのに凄い」と言いたい。神か悪魔か。いや、神と悪魔ってヒカルが生んだんじゃないの。何を言ってるんだ俺。


歌唱力が更に上がっている事実に愕然・呆然とする。今『嵐の女神』を聴いてみたら、歌い方が雑に感じた。それくらいに歌の精度が上がり、トーンのコントロールが巧みになっているのだ。過去最高のパフォーマンスを見せた『桜流し』が“普通”に聞こえる。有り得ない。

宇多田ヒカルの歌唱といえば、かの“ちりめんビブラート”が必殺技だった。あの細かく小刻みに震える歌声が哀愁と切なさを桁外れに増幅させ、ヒカルにしか歌えない歌を成していた。

それが今やどうだ。自分でも自分の感覚が信じられないのだが、全く衰えていないにもかかわらず、ちりめんビブラートを繰り出すと”安全策“、“安易な逃げの一手”とすら思えてしまう。それだけ周りの声のトーン・コントロールの精度が上がった。大胆に踏み込んで言えば、ちりめんビブラートを一切使わなくなった時点でヒカルの歌唱は前人未到の領域に到達できるのかもしれない。いや、使うべき場面では使っていいんだが、他のアプローチも恐ろしく豊かになった今、数ある手法のうちのひとつでしかなくなっていくのではないかと。


話がとっちらかった。来週はもっと冷静に書こう。