無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

金色のお日様が沈む頃横顔は茜色

「ご安心を。ヒカルは生き生きと毎日を過ごしてます。気遣いありがとう。teruzane」

いやはや、朝からお腹いっぱい。もう今朝はこれ以上何も書かなくてもいいかな(笑)。それだけ聞ければもう。本人不在時に、あんた最高のマネージャーだよ。その前に父だけど。

ことばというのは不思議なもので、別に今回も光の生き生きとした姿を目にした訳でもない癖に妙に安心してしまっている。これが嘘だったらどうすんだ、と思うものの実際の姿を見せてくれてたって嘘の態度を見せているのかもしれないし(やせ我慢て奴だな)、言い出したらキリがないのだ。何をどう信じるかは感性に任せるしかない。それを自覚していないと、人に対して攻撃的になったりするのだけど。

「ご冗談でしょう、ファインマンさん」で有名(?)なリチャード・ファインマンは、妻を亡くしたその時には泣かなかったが、ある日ふとショーウィンドーに目が止まって「あぁ、この服妻に似合うだろうな」と思った瞬間に彼女がもうこの世に居ない事に気が付き、涙が止まらなくなったという。このエピソードは、このエピソードを知っている人ならついつい何度も引用したくなる位に印象的なエピソードだ。人を喪う、とはこういう事を言うのだと端的に教えてくれる。

この話、普段は色々と縁起がよくなさすぎて披露できないのだが、照實さんが上記のツイートをしてくれたお陰で遠慮なく書けている。ありがたい事だ。

人が死んだ時、連絡が来る。大抵はその瞬間が最も衝撃的で、悲しい。そして、それが人の世のシステムというものだ。ファインマンさんのように、そういったシステムから自由な人(という表現は、彼の生涯を顧みると若干の皮肉を含むかもしれないが)は連絡を受けただけではまだ実感に到達しないだろう。自分の人生に深く入り込んでいるある日常の瞬間に、居る筈の人が居ない、それに気付いた瞬間―


人には想像力というものがある。それに沿って怒ったり悲しんだりする。行き過ぎると、会った事もない、居もしない存在に怨みと怒りと憎しみを募らせながらそれに人生の大半を費やす人も居る。それは信念と紙一重だし、それがないと新しい事も生まれないが、大抵はただの運命の犠牲者にしかならない。と同時に、そういった人生を送らせて貰えなかったらまたそれはそれで合点がいなかいだろう。人生は短い。想像で怒ったり実感で悲しんだり、どちらもあるのではないか。重要なのは、人が怒ったり哀しんだり喜んだり楽しんだりする事だ。恐らく、その大半は真実にとって嘘にしか過ぎないとしても。


何にせよ光が元気なら、よかった。ふぅ。