無意識日記々

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タマニアル印象ヲタダブツケルダケノエントリ

著作権の問題は書くと長くなるので直接は触れないとして、何故こんな権利が存在するかといえばクリエイターのモチベーションを維持する為だ。その点に関して我々は永遠に切実である。それに較べたら著作権なんて技術的な話は枝葉末節だ。

今回のうな重ツイートからもわかる通り、ヒカルはお金持ちであり、特に働く必要がない所が、他の大多数のアーティストたちとは違う。普通は、客の方がえらそうな顔をしているもんだ。例えば、外タレアーティストの日本盤を2500円で買って7500円の来日公演チケットを買ったりすると、まぁ錯覚みたいなもんだが自分もこのアーティストの活動を支えているんだなぁという気分になる。ぶっちゃけはした金でそんなドヤ顔かますのは人としてどうかと思うが、でもその"気分"が大事なのである。細々とでも、自分たちの力で時間を味わったという気分が。

いちおう、大前提を踏まえておこう。我々はヒカルを全幅信頼している。間違いない。さて、その上で書くよ。

卑屈になるまではいかないのだが、ヒカルのモチベーションを何とか上げたい、というのは常にあって、なんていうんだろう、「ひとの"やる気"を心配する」という感覚が何となく抜けないのだ。W.アクセル・ローズのファンもこんな気分なんだろうか。或いは鳥山明、いや富樫義博かな。何でもいいや。

当欄を書く際も、傍若無人を旨とするまでもない位何も気にせずにいるかと思いきや、ヒカルのやる気を殺いだらどうしよう、という妙な迷いが脳裏にチラついたりする。結局は考えないようにして書いちゃうのだが(書くんかい)、何故そうするのかといえば、その微妙な心の動き自体が人のモチベーションを揺さぶるからだ。

揺るぎない信頼。ヒカルが歌い続けると信じて疑わない事。それが強さ。寧ろひとはそれにあてられてやる気を出す。信じる事は正誤の問題ではなく、貫く事で引っ張り上げる事なのだ。信じる者が実際は掬っているのである。

なので、私は常にヒカルは歌い続けるという前提の許で話を進めている。他人の人生なんだから彼女の自由でしょう、なんて聞き分けのいい大人な態度は一切とらない。ヒカルが歌う事に較べれば自由とか権利とかいう人工的な概念など全くとるに足らない。それを求めて有史以来、ありとあらゆるヒトが戦いに明け暮れ手に入れられず血を流し死んでいった事であろうが、それよりヒカルの歌の方が大事だ。喉が物理的に大丈夫である限りまた歌う。これは決まった事なのだ。

人として、なんていうのは為にする言い訳だ。だからこそハズせない。人間活動を通過すれば今まで以上に遠慮なく歌える。耳と喉に感謝。


妙に熱く(暑く?)なっちゃったけど、私は裏切られる怖さを許に疑う事はしない。不安は期待を引き立てる為のスパイスだ。信じるのは、その意味に於いてこの上なくラクだ。でもそれだけだと道を見失うから、そこで初めて私は疑う。その為の自由はこの上なく重要な筈なのだが、光はそれをも上回る。だから、なんだろう、"いっしょうかなわない"気は、とてもするよ。いいこと。