無意識日記々

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駄戯れ合おうか

モチベーションという意味では、稼ぎすぎてしまった事に少々恨みを感じる。「息子食わせてく為にも母ちゃん頑張んねぇと」モードに入ってくれるなら有り難いんだが、いや多分そんな必要無いよねぇ。浪費家だったらよかったのに…というのも違うんだけども。

プロフェッショナル過ぎるとニーズが無くなればモチベーションが低下する、という考え方は何度か述べてきた。芸術家は自らの衝動に正直で居ればいいが職人は依頼無しに腕をふるったりしない、と。つまり、よく「これは芸術か否か」みたいな問題設定を見掛けるが、私に言わせればそれは本人のモチベーションの違いの話であり結果として出てきた作品の話ではない。他者に認められようという時点でそれはもう商売である。そして、それがメインかどうかだ。それが無くても衝動が残るのならそれは芸術、artと呼べるのではないか。自律した創造だ。

ヒカルが真にエキセントリックな面があるとすれば、自己と他者の区別をつけない場合が有り得る点だ。今私が展開した論法はこれにより論破される。自己と他者の区別がつかなければそれは芸術と商業の区別も生まない。音楽家として、他者の音楽も自己の音楽も区別をしない心境というのはどういうものだろう。そしてその心境においては、自己という存在は何百万分の一でしかなかったりする。そんな"ちっぽけ"なモチベーションが"他者の音楽"以上のものを生み出せるだろうか。

ここにもうひとつからくりをつけたしたのが宇多田ヒカルだ。自己と他者の区別の無い世界にあっても、1人々々の個体にとって自己という現象は普遍であり且つ総てである。そして、1人々々にとって何十億という他者が存在し得、その自己の存在の矮小さを痛感している。その心細さを歌えたのだ。儚く切なくなる筈である。

宇多田ヒカル幾何学的に考えてはならない。ホログラフのように部分に全体を封じ込め、全体が部分を参照する。どちらかといえばこれは言葉の世界である。だから歌なんだと力強く言えるならいいのだが、その為にはヒカルの歌唱力が絶対的に不足している。

今まで以上にヒカルの歌唱力が上がる事はあるのだろうか。ヒカルより技術的に優れたシンガーを参照し模倣できるかといえばいやもうかなり難しい。声域や声量やスタミナは衰えてもいい。如何に声を制御できるかである。

言葉の世界の話の筈なのに声という幾何学の話になっている。何故か。それが"動機"だからだ。今はずっと、モチベーションの話をしている。

言葉の世界はそこから幾何学の話を導き出す。ユークリッドの言論には図だけでなく文があった。文の為に図があった。我々が幾何を知るには言葉が必要だった。ならば言葉を生む幾何とは、となった時文字か声となるのは必然である。ここから物語も生まれる。解釈はいつだって後付けだ。


ダヌパが最初の言葉を話すのはいつだろう。恐らくそれは、ヒカルの人生にとって最も強烈な学びの一撃のひとつになる。先に歌われたら…というのは次に長女が生まれた時に期待したくなるのが厚かましいファンのサガだが、それは男であっても女であっても差が無いような、あるような。無意味な理屈を捜すべきではないのかもしれない。生んだ人は、分身という気分が強いのだろうか。

とどのつまり、ダジャレとは奇跡であって動機である。それが出会いだからだ。それが約束されているとは限らないが、約束の存在は保証・保障・補償される。韻を踏んでいる間に自分の影も踏みつけてしまわないように。

わかりやすくいえば、次のヒカルのツイートに嬉しそうなダジャレがあったのなら、モチベーションの心配は無いという事だ。くだらない事を言って笑っていられるうちは、気持ちが坂を下る事もない。登り坂を登る楽しさをそこから要求できるのなら、きっと楽しいものに仕上がっている筈である。