無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

ウルトラライトたん

ウルトラライトたんは峠を越したのだろうか、それとも奈落の底に叩き落とされたのだろうか。続報が待たれるが、普通に修理に出したらどうなのかねぇ…。

光がモノを擬人化して呼ぶ時は、余計なお世話の物言いかもしれないが、本気である。何かの婉曲表現や照れ隠しでなく、書いてある通りに読めばよい。なんと喩えればいいかわからないが、ペットを飼っているのとほぼ同じ意味だろうか。単純に、人間とペットの寿命が異なるように人間と機械の寿命も異なるから見届ける機会も迎え入れる機会も多いというだけで。ぬいぐるみならまだわかる、という人も、オーディオインターフェイスをたん呼ばわりするのは萌え擬人化の系譜、位にしか思われないかもしれない。

萌え擬人化は既に重心のシフトが起こっていて人間を描く時のオプションのひとつ、みたいな事になっているが―つまり、擬人化というより擬物化・擬事化になる―、光のは更にその正統的な(?)擬人化の更に前の段階…本当にモノと会話しているのだ。まぁ、くまちゃんと一緒と言い切ってしまおうか。

トイレが機材墓場になっているというエピソードも、なんか本人もよくわかってないっぽいが、毎日お参り出来る場所だからなのではないか。捨てるに捨てられない、というだけならクローゼットにしまっておけばいいし、置き切れないなら普通は何かを捨てるだろう。それが他のものだったら、果たしてトイレに置いたのか? まぁ妄想しても仕方がないのだが、もっといえばトイレをより自分の落ち着く場所にしたかったのかもしれない。ご先祖さまに護られているノリである。過去の屍の上に今の自分の生がある。繰り返すが、寿命の違う者同士の出逢いな為、残された方のそこからの人生の身の振り方はそれなりに問題になる。どこらへんで見限るか、その時どう弔うか。最近話題にも上った脳死判定に通ずるものがある。というか同じである。どの段階で諦めるか。臓器移植よろしく新しいパーツを次々に繰り入れて果たしてよいものかどうか。ウルトラライトたんの処遇は哲学と倫理の問題である。いやまそれ以上に光の思い入れの話だけれども。

僕らもウルトラライトたんからの恩恵を楽曲を通して受け取っている訳でこれは決して無縁の問題ではない。寿命の違う者同士どう生きるか。とても普遍的な問い掛けなのである。笑いもオチもなく本エントリー終了。次回はもちっとふざけたい所。