無意識日記々

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記号としての名前

この間ヒカルがツイートした原発と名前の話題、私なりに解釈すれば同じ所に根をもつ問題である。問題、と呼ぶのは即ち何故か世論が二分されているからなんだが。

俗に言うキラキラネームは何が問題なのか。片方の側からみれば名前を"常識的に"つけるのは当然であり、何故そこで物議を醸すような名付けをわざわざするのか理解に苦しむ、といった所だろう。もう片方の側からみれば、名前は名前、どうつけても何が変わる訳でもないのだから(と思っていりかどうかは個人差があるだろうが極端にいえば、ということで)自由につければいいじゃない、といった感じか。

両方の云う事が尤もだと思う私はどちらの陣営にも与しない…というとちょっとつまらないので、ヒカルに"かわいそう"と言われた方を支持してみようか。

名前なんて記号に過ぎない。ただ人と人を区別する為の処方なのだから出来るだけ個性的な名前をつけて人と被らないようにするべきだ。平凡でつまらない名前をつけて同姓同名の人が沢山でてきたら、違う事物に同じ名前をつけるという記号性にとって最も致命的な失策を犯す事になる。名前の機能を考えるならば、そして一億数千万の他人の名前をチェックできない以上、マージンをとって個性度をアップしておくのは当然なのだ。

これは案外本質的な議論である。名前とはそもそも何なのか。何よりも個体と世界を、個体と社会を、切り離すものなのだから、名付けはできるだけ世界や社会から突飛であればあるほどよい。そうやって人の個性は担保される。

実際、そもそも名前が変だから社会的に不利益を被るというのはおかしくないだろうか。それなら「あいつは顔が変だから差別しよう」というのと何も変わらない。いや、顔は人にはどうしようもないが名前をつけるのは自由にできるじゃないか、わざわざ不利益を被るように自由を行使しなくても、という意見も出ようが、自由をもつのは親であり名付けられる本人ではない。平たく言えば顔と同様、本人にはどうしようもない事だ。ならば糾弾されるのは親の方であり、子に不利益が齎される事態を社会として看過する訳にはいかない。名前によって不利益を齎そうという方に問題があるのだ。人を容姿で嘲笑したり就職選考で選別したりする事などあってはならない。問題なのは、名前の具体的な形状に難癖をつける側なのだ…

…なんだかこのままだと話長くなりそうだな〜連載になっちゃうの!? まぁ、いいか。ツイートに反応したりしながらゆるく続けていく事にしようか。