無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

"自主性に任せる"

ヒカルが2ちゃんねるまとめサイトを読んでるって書いてたのはもう5年ほど前になるか。確かに、当時は面白かった。言葉が生まれて変化を繰り返し吸収拡散淘汰されていく大きな流れ。外から眺めていても楽しかったし、何より、3ヶ月も離れていれば完全に流れから置いてき堀にされるんじゃないか、というスピード感があった。言葉のダイナミズムに興味を持つものならば食いつかずにはいられない活気があった。

今も、まとめサイトは、様々な紆余曲折を経ながらも、一部は転載そのものを禁じられながらも、結構活発に活動している。が、それらを見る限りその頃のようなダイナミックな動きは見られない。2ちゃん全体がそんな感じなのかまとめサイトが抽出するスレッドが保守的なのかどうかはわからないが、多分もう今はヒカルも当時のような興味でまとめサイトを開く事はないだろう。

でだ。果たして、それではTwitterはそういった"言葉のダイナミズム"を体現或いは継承したりしてくれているだろうか。私の見る限り"否"だ。拡散されていく言葉はその時点で"陳腐化"している、価値の確立した「誰かの名言」である為、伝達の機能は果たしてしても創造の機能としてはかなり弱い。せいぜい、気の利いた返しをして「誰がうまいことをいえと」と賞賛される程度の事だ。

この理由は単純で、言葉を発した人間が誰か特定してしまえるからである。言葉は人の手を離れ、あたかもそれ自体が生命を持つかのように振る舞わせてあげると、途端に変化と成長を繰り返していく。そうなる為には2ちゃんねるの持つ匿名性は圧倒的に有利だった。発言の属人性を排し、純粋に言葉だけを弄る行為が延々と繰り広げられていく。まさに"独り歩き"。この「手に負えない」感がクリエイティブな雰囲気を生む。

小説やマンガなどの物語も同じである。作者は決まって、「キャラクターたちが勝手に動いて物語を作り上げていってくれる」という言い方をする。最初っから作者の用意した物語に当てはまるようにキャラクターを動かそうにもそこに活気は生まれない。変化する主体自身が自主性を持つ事が大切だ。

そう考えると、音楽もただ計画的に制作に取り組むだけでは物足りなくて、自然に生まれてきて止まらない感覚をうまく捉える事も大切になってくる。ヒカルが次に活動する為の"理由"がそれだとしたら、今でもヒカルは自身の復帰時期を"知らない"事になるが、果てさて実際のところはどうなのだろうか。寧ろ、ツイートが減る時期の方が怪しいのかもしれないな。