無意識日記々

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あまちゅあくまちゃん

少し前にヒカルがテレビっ子かどうかというやりとりをした。まぁどっちでもいい事だとは思うのだがひとつ私が「こうではないか」と推理している事がある。ヒカルは、「基本的に同じ番組は何度も観ない」のではないだろうか。

テレビとは習慣である。期待に胸踊らせて画面の前に待機、という事もよくあるけれど基本的に"何の気なしに"電源を入れ、"特に何も考えずに"ザッピングをし、特に何をする訳でもなくつけておいて見ていたり見ていなかったりするものだ。いわば、風景・背景に近い。

このような役割である為、ひとつの家庭である時間に見る番組というのは大抵決まっている。わざわざいつもと違う番組を見ようというのは、大抵その回がつまらなかったりといったやや消極的な理由だ。いつもどおり面白いのであればいつも通り見るだろう。連続ドラマでもないのに毎週安定した視聴率を取り続ける番組はそういった視聴者の"習慣"を獲得しているのである。

ヒカルは、比較的そういう事が少ないのではないか。面白いと話題になっている番組は取り敢えず見てみるけれど、その番組の肝を把握すれば、もうそれ以上見ようとしない、つまり毎週そのチャンネルに合わせる、という"習慣化"の習慣がないんじゃないかと。つまり、色んな番組を結構"見たことはある"けれどそんなには"いつも見る"訳ではないんでないか。

そんな風に推理するのには理由がある。ヒカルが、「自分で作った曲を完成後は殆ど聴かない」傾向にあるという話である。多分これがプロのクリエイターの感覚なのだろう。創って、差し出す。そうした後には今度はその出来上がった作品を味わうのではなく、次の作品を作り始めるのだ。物凄く極端な言い方をすれば、出来上がって完成してしまいもうそれ以上手を加えられない作品はヒカルにとって"邪魔"ですらあるのだ。自分が"手掛けられるもの"にしか、その都度興味がないのである。

その性格が、プロフェッショナルとしての側面にだけ発揮されるのならまだ普通である。ヒカルの場合は、何もしなくても、つまり仕事でなくてもそういう気質があるのではないか。テレビ番組というのはその着眼点と発想を枠組みとして毎週中身を詰め込んでいくものだが、ヒカルにとって"得る"ものがその枠組み自体だけならば、一回見れば十分である。いわば、創造性の核である。二回目以降の放送は結局これも"邪魔"でしかない。

対照的なのがくまちゃんで、水戸黄門のファンである。毎週同じ枠組みでこれでもかと繰り返されるテレビの権化のようなこの番組。ヒカルにないものをもつ、というのがひとつの特徴であるくまちゃんに相応しいのではないか。

しかし、ヒカルは人間活動を通じて"アマチュアとして音楽を作れる"時間をたっぷり持てた筈である。つまり、誰に聴かせる為でもない、自分で聴く為の作品、或いは作品そのものの為の作品を。それが果たしてヒカルに可能なのかどうか。やっぱり、曲作りという営み自体、"プロフェッショナル"という枠組みがなければ機能しないのか、それともぼくはくまが生まれた時のように、ただただ生まれてくるものなのか。もしかしたらヒカルは、余りに小さい頃からプロフェッショナルなミュージシャンとして振る舞ってきた為、"敢えて"自分から"アマチュアになってみる"事が必要だったのかもしれない。或いは、アマチュアになる必要性なぞ未だに感じていないかもしれない。音楽に愛されまくる存在は、音楽を求める必要などないのだから。作詞はまた違いそうだけれどね。