無意識日記々

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見/捨てない 絶対に

昨夜のタマキンツイートは2300RTを超えた模様だ。もっと他の呼び方はないのか。まぁいい。特にそっち方面に話を延ばすつもりはない。

日本人音楽家というのは研究熱心なのか真面目なのか、兎に角まず演奏が巧い。音作りも丁寧だ。トッププロ達の職人技は本当に恐れ入る。仕事人達である。故に「○○風のサウンドを作ってくれ」系の注文には滅法強い。すぐさま用意してくれる。

しかし、その肝心の「○○」の部分を生み出す力がほぼ皆無だ。まぁそれも仕方のない事で、商業音楽のほぼ総てを輸入して出来上がった文化なのだから当然といえば当然なのだ。例えば「演歌は日本の心の歌だ」とかいった類の言説は真っ赤な大嘘だ。演歌のバックで演奏してる楽器を見てみろ、エレクトリックギターにベースにドラムにアコーディオンにプラスに…と全部カタカナで書くものばかり。あれもルーツを辿れば洋楽(かなり広義のだけど)に行き着く。日本人に音楽でオリジナリティを求めてもまぁ大体無駄である。

そこで宇多田ヒカルの立ち位置がどうなのか、という話を始めるのが当Blogのあるべき姿なのだろうが、特に言い足す事はない。ヒカルの楽曲は、例えば出たばかりの新曲のイントロを聴いただけで誰が作ったかすぐわかるような個性の偏りがある訳でもないし、歌い始めれば唯一無二とはなるものの、単にここらへんの歌唱でヒカルに食ってかかれる人材が足りないだけで、それこそアメリカ全土からかき集めればヒカル程度の歌唱力なら埋没させる事も可能だろう。少なくともいちばんは誰かに譲る羽目になる。

少しはフォローしないといけないかな。しかし、ソングライターとして見た時ヒカルの才能は突出している。こればっかりは全米全土からかき集めてもなかなか太刀打ちできないだろう。特に、アルバム全体を質の高い楽曲で埋め込み尽くす能力は他の追随を許さない。The Beatlesだってこんな密度でアルバムを作った事はない。ソングライター3人居るのにだぜ。

もしかしたら、ヒカルって「アルバム」という形態が合っていないのかもしれない。HEART STATIONの構成は見事なもので、アレをアルバム全体で聴かないなんて有り得ない、とここでも当時さんざ繰り返してきた。確かにアレは素晴らしい。しかし、それは結果論である。というのも、ヒカルはひとつひとつの楽曲を全力で作るからだ。アルバムという単位で区切られているのはレコーディングの〆切と曲数くらいなもので、作っている時はアルバム全体のバランスとかを考えている訳ではない。寧ろ、そういった事を考えるのは作った後だろう。バラードを捨ててCelebrateを書いた時の事を想起。確かに、アルバム全体のバランスを考えてイケイケな楽曲を生み出したのだが、それは、その捨てられたバラードがそれなりに完成した後の話である。

何が言いたいかといえば、宇多田ヒカルには捨て曲がない、という誰もが感じる話である。捨て曲作る位なら曲ごと捨ててしまうのだ。その、一期一会ならぬ一曲一会、一球入魂ならぬ一曲入魂の態度をリリースに反映させる為には、全曲シングルでリリースするのがいちばんなのだ。続きはまた次回。