無意識日記々

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そこに皮肉も打算もない

セバスチャン・ハーディーの「哀愁の南十字星」を聴くといつも胸が締め付けられる。初めて聴いたのは20年近く前、初CD化だったのかな、その時だ。余りに美しいメロディーラインに「なんて懐かしい気持ちにさせてくれるんだろう」と感激したものだが、今「哀愁の南十字星」を聴くとその時の事をとても懐かしく感じる。二重に懐かしいってどういう感情なのだろう。そろそろ懐という漢字が壊れ始めそうだよゲシュタルト的に。

この曲の私に与えた影響はとても大きい。同じ旋律をバラードから始めて次にアップテンポに移行させる手法もそうだし、何より「気に入った旋律は百回繰り返せ」という教訓はこの曲とIRON MAIDENの"Transylvania"から学んだのだ(実際Transylvaniaでは後半同じリフをピッタリ100回演奏する、筈だ(私調べ))。この指針力は大きかった。信念の方位磁針と言ってもいい。先達が形にしてくれている事のencouragementの何と大きい事か。この曲に出会ってなかったらと思うとゾッとする。そしてこの曲のリリースは1975年。やはりこの頃の音楽には特別な思いがあるなぁ。

二重の懐かしさだなんて、音楽に長年親しんだ人間でないとなかなか味わえない感覚だ。歳とるのもいいもんだな。多分その間にもう思い出す事も出来ない感覚の数々を忘れ去っているのだろうけれど、音楽はそのうちの幾つかをピンでとめるように心に打ちつけておいてくれる。感情を揺さぶる体験を想起する機会を与える何かを形に残しておく。なかなかにいい仕事ではあるまいか。ただ、二重に懐かしいとかになってくると"最初の体験"っていつどこに在ったのか最早わからない。それ自体が錯覚であるのなら、Passionという曲は音楽の不思議そのものを唄った歌でもあるかもしれない訳だ。特にafter the battleは、あるべき場所、あるべき瞬間に連れて行ってくれる感覚がとても強い。あの呼吸を音楽に封じ込めただけでも賞賛に値する。素晴らしい。

しかしこれを書いた当の本人はさっき『誰にも褒められないようなことをやってる人こそが真に称賛に値する人だと思う今日この頃。』『自分の行いにたいして「特別なことではない、人様に褒められるようなことではない」と本当に心の底から思えないと、なにやってもダメだね。仮に世間一般的に「すごい」と思われたり「とても良い」とされるような行為をしていても。』てな事を呟いたばかり。まぁ最近にない難解な話を持ち出してきたなという印象。そういう私もつい先日「えらいと誉められてるうちはこども扱い」だなんて事を書いたばかりなのでこれには激しく共感する。1人前になる、って誉められなくなる事だよな。

それと同時に、私も光も別に何かを讃える事を一切否定していない。そこには皮肉も打算もない。素晴らしいと思ったら素直にそう言うし、言ってもらっていいし、言われると嬉しい(笑)。だからどんどん言ってくれればいい。そうやってみんなで自然に振る舞っていく中で、いつしかそれが当然という空気に、周りも、誰よりも自分自身が染まっていく。それこそが何かを成し遂げた証だろう。宇多田ヒカルはそこまで行くつもりか? だとしたらめっちゃ期待大なんですけどっ。