無意識日記々

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忘却の淵

アイス抹茶ラテ飲んでタクシーに乗っているという事は今日本に居るのだな。あっちゃこっちゃ行って神出鬼没でこちらの憶測を嘲笑うかのようだがまぁそういう性格なんだし仕方ない。存分に振り回されてやろうでわないか。

そしてまたも拾い物ツイート。メダルチョコやら結婚式プログラムやらに続いて今度はたなごころにおさまる程小さな、恐らく人形が履いていたであろう小さな黄色い靴。道端で拾ったというが正気の沙汰ではない。あんな小さいモノをどうやって見つけたというのだろうか。忙しく移動している時にあんなのが目に止まるのかな…ここまで来ると超能力に近い。

漫画「ドラえもん」のひみつ道具に"いしころ帽子"というのがある。これは、身につけた人が周りから気配を消す為、といういわばよくある目的に沿って用いられるものなのだが、通常の"透明になる"とか"見えなくなる"という超能力とは異なり、"(路傍の石のように)見えているんだけど誰も気にとめなくなる"という、少し捻った機能を持つ道具なのであった。初めて読んだ時は「見えなくなるよりずっとタチが悪い」とゾッとしたものだ。確かに、目に見えてるのに気にされない、という本当の存在感のなさはいちばん絶望的である。\アッカリーン/

そういう、"いしころ帽子を被ったような"存在をヒカルが拾い上げるのは、ある種ライフワークなのではないか。都会の喧騒の中に過ごしながら、路傍にて誰にも顧みられずにポツンと"そこに在る"落とし物に気がつき、実際に拾い上げる。そうする為には、自身がいしころ帽子側の世界に身をおかなければならない。よくヒカルは街中でも全然気付かれない旨胸を張って主張してたりするが、それはヒカル自身がいしころ帽子を被ったかの如く"人々から忘れ去らたような"気配で過ごしているからか。ヒカルには、街を歩いていても"そちら側の世界"が見えているのだ。方向音痴にもなる筈である。

そして多分、この能力が作詞作曲技術の源泉の一つになっているのだ。既に皆の目には入っているのに"忘れ去られた"メロディーとことばたちを見つけ出して紡いでいく。だから私たちは、新しい曲に出会った時に時折旧友に再開したような、故郷に帰ってきたような感覚を覚える。僕らは既に彼らに出会っているのである。その存在に気をかけなかっただけで。忘却の淵からの再生。それが出来ている限り、ヒカルの作詞作曲能力は健在であると言い切っていいだろう。