無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

アサギマダラがまた光の前を飛ぶ時迄

本来、全人類の威信をかけて全力で警護せないかん人なんだが勿論当人はそういうのを嫌がる訳でな。ふらりとひとりで街を歩きたくもなるさね。一人じゃなかったかもしれんが。こちらはハラハラドキドキでゲソ。

なんだかこうやってツイートがあるんなら新曲とか復帰とかどうでもいいような気がしてきたが流石にそういう気分に流されるのはマズいので口先だけでも復帰希望々々々々と言い続けますわ。

さて前回ちらりと触れた「二回ミスってやめた話」、彼女の場合はどうかわからないが、私の場合を書いておこう。

別に、三回目にチャレンジするのは構わないのである。確かに、3回も同じ事を書いていると自然に文章は変質してくる。特に、読者にとってわかりにくい方に変わっていくから質(タチ)が悪い。こちらはもう既に大体同じ文章を二回も読んでいるのだからどうしてもそれを前提として先に進みたくなる。それを踏みとどまって深呼吸して落ち着いて"おさらい"をするのには、エネルギーが要る。何より最初の瑞々しさが文章から失せる。やる気が起こらない。しかしそれでも、私の場合「書かないより書く方がいい」という律し方で何度でも書き直せる。まぁそれはいい。

であっても二回で止める理由。それは無意識との対話である。その二度の失敗が、本当にウッカリしているだけだったのか、それとも"無意識からの示唆"であるかどうかを見極める必要があるのだ。ヒカルが今回どう思っているかはわからない。しかし私は、自分の無意識のする悪戯が、自らの意図を越えて面白い事を運んできてくれる事を経験的に知っている。いつもでもしばしばでもないので大概の失敗は単なる集中力の欠如なのだが、まるでわざとらしく何らかの失敗をする事がある。それは無意識が教えてくれるのだ。事後にはそれは明白だが、事前にそれを察知するのは難しい。二回同じ失敗をした時に、両方とも自分の集中力が足りなかったのか、それとも何か違う事が起こったのか、その瞬間に自らの感性をはたらかせて判断しなければならない。三度目の正直を狙うか、違う道を選ぶか。くどいが事前にはどちらがどうだなんてわからないのである。

"無意識との対話"と書いたが、人によっては"神の啓示"なんていう風に表現する人も居るだろう。自らの意図を超える何かを運んできてくれるのだからそう呼びたくなる気持ちもわかる。或いは"天からの啓示"とかね。このBlogの携帯更新のカテゴリーが"天然啓語"略して"天啓"なのも、これが無意識との対話だからだ。即ち「天啓」とは「無意識日記」と同義なのである。余談でした。

ヒカルは今回二回の失敗で撤退する道を選んだ。こういう場合、例えばFor Youの歌詞がつくのに二年を擁したように"次の時"が来るまで二、三年は掛かる。秋元康が言う"止まってる時計は1日に二度正確な時刻を示す"のと似たようなもので、また"ピタッと合わさる"タイミングが来るまで一周待たなくてはいけない。今度はそれを逃さない事である。勿論その瞬間とは宇多田ヒカルの歌の歌詞に今回の経験が反映される事で……って、何だよ、やっぱり新曲が聴きたいんじゃないのアンタは。