無意識日記々

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愛の対局

細かい話から。光が常用漢字の話に敏感なのは、たぶん1年間で5年分の漢字を覚えるような苦行を経験しているからだろう。読めるスキルと書けるスキルは当然非対称で、読める漢字が書けない事は日常茶飯事だが書ける漢字が読めないケースは極めて少ない。この非対称の起こる原因と理由は解明されていないが、もっと極端なケースを考えれば実地にはわかりやすい。目の前に描かれたロボットか何かがエヴァンゲリオンであるかどうかを見極めるのは容易いし、それがエヴァンゲリオンであると答えるのも容易だがではエヴァンゲリオンを描けと言われて描ける人は殆ど居ない。あんなディテール思い出せる訳がない。しかし、我々はパチモンのエヴァンゲリオン…いやドラえもんでもピカチュウでもええねんけど、どこがかはわからないがどこか変だと感じ取る事が出来る。"漢字"というヴィジュアルな文字を持つ文化に特徴的な事なのかもしれないが、英語でも単語は読めるがいざ書くとなるとスペルがわからないというケースはありそうだ。繰り返すが、何故そうなってい
るのかは謎である。説明なんてできっこない。わけがわからないよ。

さて本編は愛の対局の話。なかたにさんから光に対して『「対極」では?』とツッコミが入っていた。常識的な日本語としてこのツッコミは勿論正しい。対局では囲碁や将棋の話になってしまう。しかし、本来はこの二つ、というか"局"の字と"極"の字は大体同じ意味なのである。英語でいえば"local"、限られた場所に特定する時に用いる漢字だ。局所や局在、更に放送局の局も、広がる電波の発信源という場所を特定しているから局である。大体今はこれで定着しているが、一部日本語には"極"を"局"と同じ意味で用いている例がある。高校の数学に出てくる"極値"、極小極大の概念だ。最大最小と並んで出てきてどっちがどっちかわからなくなるのが定番のこの用語。"極めて大きい"/"極めて小さい"と読むと確かに"最も大きい"/"最も小さい"と紛らわしいが、素直にこれを"局値、局大値、局小値"と書けばすんなり意味が通る。あれは局所的に大きな
値小さな値の話なのであるから。この混乱は、極の字を局の字と同じ意味として無批判に使用し続けている事が原因なのだ。まぁそこまで遡れば"愛の対局"でも間違いではない。この場合の局は"対になる一点"という意味として使えるだろう。いや現代日本語の感覚じゃやっぱり間違いだけどね。


という訳で"愛の対局"の話である。対になる一点。即ち南極に対する北極、天国に対する地獄、右と左、上と下、男と女のように対を並べた時に"愛とほにゃらら"のほにゃららの部分を考えよう、という話だ。光の答は恐怖だとな。"愛と恐怖"。なるほどぬ。ぬっ。

私の答を簡潔に書こう。愛の対局は、ない。私にとって愛とは常に中心的な概念であり、物事の核、コアとなるものだから対局というものが存在しないのだ。+1の対局は−1かもしれないが0に対局はない。∞は数ではないから局在しておらず局とはなりえない。しかし、極ではあるかもしれない。その意味において愛の対極はと問うならそれは無限、あるいは虚無、何にも決まらないあやふやな何か、だろう。愛は1点に、0に集中している。それが私なりのイメージである。