無意識日記々

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『音を見る』2

小さい頃から「モーツァルトを楽しめるようになったら歳だ。あんなの凄いのは聴けばわかるじゃないかつまらない。」と意地を張って生きてきたのだが、ついに「あ〜モーツァルト聴いていたいな」と思うようになってしまった。これは明らかに"老い"だ。何か悔しいような仕方ないような。少し寂しい。

日記的独り言はこれ位にして。前々回の続き。

「音を見る」というのは、あたかもそこに音が物体化して存在しているかのような感覚である。つまり、演劇や映画を見るのと同じような感覚で音を捉えるのだ。

よくわからない場合は順序立てて考える。まず、バンドなりオーケストラなりがそこに居て演奏していると想像してみよう。これなら容易だろう。ギターの音には潤子さん、ベースは種子田さん、ドラムに阿部さんが居てマットが隣で笑っていて…それぞれの楽器から音が出ている。音楽だけを聴きながら、そんな風に風景を思い浮かべてみる。

さて、そこから人を消してみよう。楽器だけがAutomaticに動いて音を出していると考えるのだ。少しホラーな映像だが、そこから更に音の鳴っていない物体を少しずつ削り取っていこう…最後には、ドラムのスティックの先やギターのピックしか残らない…それさえも消してみよう…勿論、音楽は鳴り響いたままだ。誰もいない舞台、何もない舞台に音楽が流れている。…ここまでくれば、"音を目で追う"事は幾らか容易くなっている筈だ。

難しい? そうかもしれない。何故こんな事をしているのだろう。"作編曲家"宇多田ヒカルの魅力を存分に味わい尽くす為に他ならない。ヒカルは言っていた。私は音を風景で捉えると。三宅さんは波で捉えると。ヒカルは目で音を追っているのである。

視覚的に音を捉える人と波の"感じ"として音を捉える人では、作る音楽がまるで違ってくる。波で捉える三宅さんは、音を重ねて捉える為、和音重視になりがちだ。複数の音をいちどに鳴らす場合、そこに協和音や不協和音があるかないかにまず頭が行く。ご存知"コーラスの鬼"のお出ましだ。和声にこだわり抜いて48トラックをどんどんと"重ねて"いく。出来るサウンドミルフィーユのような厚みを湛えている。

視覚的に捉えるヒカルは、複数の音を鳴らす場合に対位法的になりがちだ。妙な用語だが、うんと広義には"それぞれの音が独立に勝手に鳴っている"感じを差す。顕著なのがAnimatoだ。ヒカルが(ってUtada名義の曲だけども)自由気ままに曲を書いたらあんな感じになる。4つも5つも楽器が各々のフレーズを繰り返していく中、ヴォーカルさえもリフレインを繰り返す中で楽器陣の中に溶け込んでいく…それが妙に幻想的なような、身近に感じるような。兎も角、ああいうサウンドは音を"見て"作らないと出てこない。音が空間的な実体として"そこに在る"という感覚。これさえ掴めてしまえばヒカルのサウンドリエーターとしての図抜けた才能を味わうのに苦労は要らない。それはそれは素晴らしい世界が"目の前に広がる"だろう。

そして、音を"目で見て"聴く時にいちばん"美味しい"のは、真ん中で歌っている歌手の歌声と"目が合う"事である。あの少し気恥ずかしい位の感覚は、普段から"音を見る"のに慣れてないとなかなか味わえない。まるで歌手と一対一で見つめあっているような。想像力万歳。妄想力万歳。

向き合える音楽。溶け込める音世界。特にUtadaのEXODUSアルバムはそうやって聴くのが吉だ。次回から具体論に入ろう…かな? まだ未定。