無意識日記々

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「無理!!」

さてここから桜流しのInstrumentalについて更に突っ込んだ解説に挑みたい訳だが…結論から先に言ってしまえば、「無理!!」なのである。いきなりの弱音には理由がある。日本語で表現していくにはアレンジの変化が微妙・玄妙に過ぎるのである。

今までと何が違うかといえば、各フレーズ同士の距離感と、各フレーズの変化の自由度である。平たく言えば、同じようなメロディーが似たような似てないようなメロディーと絡み合った楽曲なのだこの桜流しという奴は。

例えば、最終盤の『開いたばかりの花が散るのを見ていた木立の遣る瀬無き哉』と冒頭の『開いたばかりの花が散るのを見ていたあなたは今年も早いねと残念そうに』では、歌い出しはほぼ同じであるが最後の方は(冒頭の方が)かなり崩しにかかっている。これがまた、定型的なメロディーの方が後に来ていて、聴き手が先に耳にするのが"敢えて崩した方"なのがまた話をややこしくしている。普通は逆なのだ。かっちりとカタチの明解なメロディーを提示してから、その後で崩しにかかる。これはクラシックでもジャズでも基本である。この主題の時間的遡及性はこの楽曲の印象を難解にするのに十分だ。その分感動も容赦なく劇的なのだけれど。

何しろ、冒頭からの流れの次にこのメロディーが登場する時も又その形状を変化させている。

『開いたばかりの花が散るのを今年も早いね』「と残念そうに」
『見ていたあなたは』「とてもキレイだった」

『あなたが守った街のどこかで』「今日も響く健やかな産声を」

上記のうち、『』部分が定型的メロディー、「」が崩しにかかった、即ち変奏部分、バリエーションである。3回出てきて全部"語尾"が違うのである。ややこしいっすよヒカル先輩。

これが楽曲のクライマックスまで来ると、

『開いたばかりの花が散るのを』
『見ていた木立の遣る瀬無き哉』
『どんなに怖くたって目を逸らさないよ』
『全ての終わりに愛があるなら』

と全て定型的メロディーで歌い上げている。ここにきて漸く"本来のメロディーがどうであったか"が提示される。たった一度きりだけ。このパートを初めて迎えて、そしてこの楽曲は終局を迎えるのだ。何という一期一会の展開美。そりゃ何度も聴き直したくなりますさ。

そして問題なのは、このクライマックスのメロディーの変奏っぷりに合わせて、器楽隊が様々な動きと形態を見せる事だ。一例を挙げれば、今書いたクライマックスの歌メロの右側でシンセサイザーが(ムーグっぽい音色だった気がするが後で確認してみます)、今度は"メロディーの最後だけ歌とシンクロする"フレーズを奏でていたりするのである。冒頭ではメロディーの"語尾"にバリエーションを持たせていたのと対比するように、今度は歌とシンセの2つのメロディーがひとつの"語尾"に向かって収束していくのだ。広がるイメージと集まるイメージと。ややこしい。本当にややこしいのだ。たったひとつのメロディーを巡って、これだけの工夫が凝らされているのである。この複雑さを前にしては、とても今の私の日本語能力でその工夫の全貌を書き下すなんて「無理!!」としか言えないのである。でも、出来るだけやってみるね。