無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

脆さと危うさ

といいつつ、続きを書くのは難しい。まともなインタビューひとつ取れてないのにヒカルの気持ちなんかわかりっこない、とも言えるし歌に全部乗ってるんだからそれでもうよい、ともいえる。どうでもいいわけではないが、どちらでもいい。

感情の問題である。事実の問題ではない。自分の国の危機という側面もある。大半は自滅な気もするが、それが震災の齎した最大の災厄なのかもしれない。我々は殆どの人間が身の丈に合わない反映を享受しているのだ。その為、少しこうやってズレただけで、100年後の人間に呆れられたり憤られたりする愚行を撒き散らしたりする。普段の日常の行動は、非常に確率の高い偶然に過ぎない。高度な文明はやはり脆いのである。しかしその贅肉の肉づきを削ぎ落としても、野生は野生でひたすらに危ない。ただの殺し合いの世界である。脆さと危うさ、どちらをとっているかといえば日本という国は脆さをとったといえる。いつまで続くかわからないが…。

そんな私の戯れ言はいい。重要なのは、ヒカルにとって震災がエモーショナルな出来事だったという事だ。メディアを通じたイメージだけでも大きかったろうが、もしかしたら長年の、彼女も名前を覚えているようなファンが亡くなられているかもしれない。つまり、"僕ら"のうちの1人である。ともなれば、それは彼女にとって他人事たりえないし、"僕ら"にとっても他人事たりえない。明日は我が身、今僕らがこうやって呑気にBlogなんぞ読んでられるのも非常に確率の高い偶然に過ぎない。いつ何時、津波に全てを攫われるかわからない。津波というのはただの象徴で、要は"昨日まで考えもしなかった脅威に突如曝される"事態の事だ。確かに、どうにもならない。

だからこれはイマジネーションの問題であると同時に、リアルな問題でもある。油断して生きている僕らの心の全体が桜流しを聴く前提となっている。だから多くの人々に届く筈だ。生き残った僕らの心に。

気づきの問題である。桜流しを聴く度に、大きな力に押し流されて大切な人を喪う人の事を考える。この歌が歌い継がれる事で、記憶が呼び覚まされる。その機能は筆舌に尽くし難い。恐らく、例えば毎年3月11日を特別な日とみなす機会は、そのうち一年ごととなり、五年ごととなり、十年ごとになり、どんどん他人事になっていく。今この瞬間、1月17日といわれて何の事かすぐわかった人はどれ位居るだろう。忘れる。お陰で生きてもいけるのだから、復興により恐怖が歴史の一ページに封じ込まれるのも悪い事ではない、けれどね。

しかしこれは感情の物語である。事実とは直接関係ない。表現者は、この感情の渦の中で何を刻むのか。何をしなければいけないか。

庵野総監督は、EVAQを随分改変した筈である。でなければ、そのような発言をひとに伝える訳がない。私も影響を受けたのだから貴方も遠慮なく影響を反映してくださいという事だ。EVAは作り話であり、その中にどれ位現実の時間の流れの話を、リアルタイム・ストーリーからの影響を流し込んでいいものかどうか、総監督の周りの人間は気になっていたのではないか。彼の一言は、その気遣いに対する謝辞と許可となった。「遠慮は要らないよ、寧ろ向き合え」と。ヒカルも勇気付けられたか。どうだろう。

実際、総監督は現実の世界を題材にEVAのストーリーを描いているとは専らの評判である。ヴィレとネルフをカラーとガイナックスになぞらえた解釈もあったっけね。まぁ、ただのヒントといってしまえばそれまでだが、創作のLIVE感に制限を加えない宣言は、虚構世界の構築に携わる者同士の会話の中だから成立したともとれる。

話がだいぶ逸れたうえにとっちらかったな。次回の更新いつになるんだろう。わかんねw