無意識日記々

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表現者として

DVDシングルのメッセージで、妙に気になったのは、2人の言葉ではなく、庵野総監督の一言だった。「表現者として震災は避けて通れぬ」という趣旨なのだが、はてこれをどう解釈したものか。

こういうのって、何を指してるのだろう、と意地悪く考える。答は空気なのだが、彼らのような超一流の表現者たちの考える事を理解するには何か捻ってみなければならない。大抵その捻り自体は間違いなんだけれども。

震災の何が影響しているのか。それが地震津波であった事なのか、それが万単位の人の命を奪った事なのか。それなら2004年のスマトラ島沖地震は死者22万人とも言われてるが庵野総監督はその時この震災と向き合ったのだろうか。規模の大小でないのなら、毎年世界各地で地震津波の被害者は出ている。「よくあること」なのだ。

要点はそこではない。「表現者として」というのが肝心だ。表現したら、受け取る相手が居る。その彼らの気分の問題なのだ。何かを表現して伝える相手の気持ちが、震災を境に大きく変化している事から逃げてはならないのである。そして、我々の気持ちが大きく変化したのは、沢山の映像や記事を観たからである。スマトラ島沖地震の時の映像を遥かに上回るインパクトの映像を目の当たりにした。あの黒い波の恐怖。死者ゼロなのに原発事故が殊更取り上げられるのも、プラント事故が生中継されたというインパクトが大きい。そういった諸々が、我々の気分を変えていった。

勿論、被害規模を考えると実際に被災された方や、被災者を身内や知人に持つ人もあろう。亡くした人も居るかもしれない。しかし、例えば私自身は、津波にさらわれた街跡、いや街痕を実際に見た事は一度もないし、死体や遺体に触れた事もない。全ては情報でしかない。幾ら想像力を働かせたところで、リアルとはベクトルが違う。

極端に言えば、高視聴率のテレビドラマを観たのと変わりがないのだ、私を含め大半の人間にとっては。皆が観て、気分が変わった、その空気の変化を前提にしなければ表現にズレが生じる、思い切りドライに書けば、そうなる。

しかし、桜流しはその「気分の変化」の生み出した作品なのかといえばそれは違う。続きはまた。