無意識日記々

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譲歩

桜流しは、EVAQの為に生み出された"わりに"、結構それ単体で独立した作品性を持っている。この点を考察するには本来オフィシャル・インタビューが必要な所だが、今回は、無い。惜しいが仕方無い。

Beautiful Worldの作風のポイントは、それが"100%宇多田ヒカルの好みという訳ではない"点だった。アニメーション映画の主題歌である事、それが既に名を成した有名作のRebuildである事、ヒカルが予め(後追いではあるにせよ)熱烈なファンであった事、等々を鑑みてBWの作風は微調整されている。結果、ヒカルの名だけを背負った場合では有り得なかったような方向性を楽曲が若干ではあるものの孕むようになった。

私個人についていえば、そういう"ヒカル独りではなかったような作風"に対する評価はマチマチである。例えばCan't Wait 'Til Christmasに対する評価がえらく高いのは、ヒカルがこれを"熊と"、じゃないや"態(わざ)と"&"狙って"作ったからだ。要するにあざといのだが、そのあざとさを私は愛して止まない。

一方、例えばFlavor Of Life -Ballad Version-に対する評価は、当初は低かった。それは、単純にああいった編曲の方向性の意図がわからなかったからである。その疑問はOriginal Versionの登場により氷解した。あれを聴いた後で、それを基にヒカルが"バラードが欲しい"というドラマ側からの要望で作り替えた、というプロセスが見えて初めて、Ballad Versionに納得がいった。お陰で今では両方とも大好きなヴァージョンである。

要するに私の場合、ヒカルが自分の好みで創ったかどうかよりも、作曲に於いて彼女の意図する所は何かという点が明確に伝わってくるか否かに興味があるようなのだ。BWやCWTCは、それがヒカルの好みから多少外れていようといなかろうと、その意図する所がダイレクトに伝わってきたから私は入り込めた。FoLBVは、単独ではそれを理解できなかった。そういう差があったのだ。

そういう耳を持った私の感性を一旦基準とするならば、桜流しには一点の曇りも感じられない。タイトルから何から、ヒカルの強固な意志が、いや、もっといえば楽曲の意志が感じられる。ミックスをはじめとして原盤としての完成度は完璧とは言い難いものの、とにかく曲が強い。こと力強さとそれの齎す美しさに関しては過去最高の煌めきである。凄い。

しかしこれは、考えてみると不思議な事だ。というのは、この曲がヒカル単独の作曲ではなく、珍しく他の人(ポール・カーター氏)との共作だからである。確かに、ヒカルがいきなりここまで緻密なオーケストレーションを組んできた事には驚いたし、それが他の人からのインプットも含んだものだと知れた時には合点がいったものだが、そうであるにもかかわらずこの楽曲はひとつの統一体として見事に焦点が定まっている。実に卓越した構成力だ。

制作には一年を要したというが、ここまで強固な構築物を成すに至っては作曲者としての迷いは最終的には消え去っていたのではないかという感慨がある。この点もインタビューがあれば訊いてみたいものだ。そして、であるからにはここでのメッセージ性は結果極めて明白なものとなっている。

さて、要点に戻ろう。ここまで強固な世界観を築くにあたって、ヒカルは、EVAQに対してどれだけ譲歩したのだろうか? Beautiful Worldの時のように、"100%自分の好みで作っていたら有り得なかった"ような要素も孕んでいるのだろうか? 次回この点について考察してみよう。