無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

後の歴史

楽曲には2つの歴史がある。作り出されるまでの過程と、完成して人々の時間に溶け込んでゆく過程、この2つだ。

楽曲が出来上がるまで、作曲者は様々な事を思い、楽曲に封じ込める。その時感じていた事、会った人、食べたモノから世の中のあらゆる事件に至るまで、有象無象大小長短種々歴々の影響を受ける。それはまるで日記のように、作曲者の時を刻み込む。

出来上がった楽曲は(作曲者自身も含めた)聴き手のものだ。感じた思い、話した興味、繋がり合う人々、事件や事故が起こった時に鳴り響いていた歌、風景の中に溶け込みながら、その曲の存在する世界が彩られてゆく。その歌と共にある世界。人々は「前とはほんのちょっぴり違う」と呟くだろう。

桜流しにも、その2つの側面がある。我々が知る歴史は、後者だ。例えばテレビ。私が見たCMは全てEVAQのCMだった。つまり、桜流しの歌声は、シンジや、アスカや、マリやレイの表情と共に人々に記憶される。次に音だけを聞いた時、瞼の裏に人々はあの生粋のアニメーションを映し出すだろう。これが「後の歴史」である。人々は桜流しをEVAQから切り離せない。恐らく、それで定着している。それに抗えるのは、案外我々である。DVDシングルを買った我々だ。いや買わんでもあんたは我々だけどな。

諄々言ってきたように、河瀬監督はEVAQと全く関係がない。あの映像と共に桜流しを味わう人は、EVAQを忘れるかもしれない。思い出すかもしれない。これは、もう一つの「後の歴史」である。楽曲の完成を紀元とするならば、映像との出会いと、そこから共に歩んでいき生まれる足跡は曲の第2の人生だ。人は、桜流しに2つの歴史を見るだろう。

同じ鉄格子から一人は星を見た。一人は泥を見た。そこまで行かなくても、同じ曲を聴いて生まれる思いは文字通り千差万別で、だからこそそれの集合は桜流したりえる。人の思いをそこで束ねるのもまた歌なのだ。

もしEVAQがなかったら、桜流しはどうなっていたか。そもそも生まれなかった、生まれていたとしても違う姿だった、いやいや、絵が消えるだけで音は不変だ、、、幾らでも言える。言ってきた。しかし、現実にはそうならなかった。こうなった、のだ。

後の歴史もまた、曲自身の一部であろう。確かに、楽譜は変わらない。音声ファイルの0と1の位置も変わらない。しかし、音楽が生命を得るのは人の心の中であり、中だけである。人が歴史と過程の中で音楽と接する以上、曲は歴史との作用でその都度生まれ変わる。聴く人もまた、楽曲という生命の作り手のひとつなのだ。

桜流しも、いつの日かヒカルが歌う日が来るだろう。その時に人々の思いは直に集まる。人々の嬌声と嘆息が桜流しにまた新しい命を授けるだろう。そして、その歴史もまた桜流しという命の色を変える。人々の心に響き続ける限り、歌は世に生き続けるのだ。


とすれば、私がこうやって曲についての話をする度に、"桜流し"という生命体は新しい色を見つけてゆく。何かを新しく感じ取った後、心は同じ色では居られない。桜流しは、またほんのちょっぴり"違う曲"として貴方の心に残る。それでもいいのなら、もう暫くこの日記にお付き合いください。いや、桜流しについてはまだ語る事が多い、って話だよ、単に。