無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

目に余る耳に多幸な話

「習慣化」については度々当欄でも触れてきた。要は、ある事を為す時に躊躇わない様だ。例えば、この日記が私にとって習慣化している、する事が出来たのは、書く話があるとかないとか以前に、日記を書くか書かないかで迷う事を私がしないからなのだ。兎に角書き始める事が出来るから続いている。

音楽ソフトが売れていない、という状況で何が深刻になるかといえば、音楽を買う事、更には音楽を聴くという行動に対して躊躇いや迷いが出てくる事だろう。"自然に"音楽と触れ合うというのは、考えてみると難しい。考えなければなんともないのだが、だから考え始めさせてしまうと厄介だ。「俺、何でこんなことやってんだろ」「あれ、私これやってる時どんな顔してたんだっけ」となるとゲシュタルト崩壊が起こる。これがいちばん怖く、深刻である。

小さい頃、CDラジカセに買ってきたばかりのCDをトレイに乗せプレイボタンを押すのに何の迷いも躊躇いもなかった。それが今では…あら、もっと躊躇いがないわ私。特にiPodiTunes Storeで買い物するとすぐさまそのまま聴き始められるので実にいい。家で寝転がりながら新譜を購入、すぐさま鑑賞、うーんやめられな…って話の趣旨が違ってきたな。私を例に出したのがよくなかったようだ。もっと一般的なケースを…


いやね、そもそも私自身は今のシーンに特に不満めいたものはないのだ。オリコンチャートの上位が秋元康とジャニーズに牛耳られているからといって、何の影響もない。今年は遂にオリジナルBLACK SABBATHの初来日があり、サマソニMETALLICAがやって来、もしかしたらIRON MAIDENがLoud Parkのヘッドラインかもしれない…HelloweenGamma Rayと二回目のジョイントツアー、イタリアンプログレッシブロックは最終章、遂にあのバンドやこのバンドも…若手でもMoon Safariは今夏に新作リリース予定、もしかしたら年内に二回目の来日公演も…楽しみばっかりなんですよ、ハイ。

だから私の事はいいんだ。そういう話ではなくて、宇多田ヒカルという人が邦楽市場の趨勢を握る位に影響力の強い人だから、音楽と触れ合う習慣を失いつつある人々に対して、何らかの劇薬的効果があるんではないか、という話をミュージックビデオ話を中断してまでしてみたかったのだが、それを書こうという私自身に対してそういう"危機感"めいたものがリアリティとして全く無い事に気が付いてしまっていやまぁなんて欺瞞的なんだろう…となって今ココなのである。

ミュージックビデオ話を中断してまで、というのはそこに少し関連があるからだ。人々の中に、ミュージックビデオを鑑賞するという行為を習慣化している向きがどれ位在るか、在るとしたらそれは具体的にどんな鑑賞視聴形態なのか、それによってミュージックビデオの評価のし方も変わってくるよね、という話。

実際に観てみた事がないから想像でしかないのだが、MTVの普及していたアメリカでは「TVでPVを観る」という行為が習慣化しやすく、故に音楽購買行動までが"自然に"為されていたのではないかという気がする。

DVDプレイヤーを持っている人に訊いてみたい。買った当日はともかく、普段の生活の中でわざわざ桜流しのDVDを取り出してトレイに入れ5分足らずの映像を鑑賞する、という行為が生活の中でどれだけリアリティを持っているか。それが、何気なく出来るか。私が小さい頃CDをCDラジカセに放り込む事に何の躊躇いもなかったように、何も考えずにDVD鑑賞できるか。難しいと思う。

装置に、よる。リビングのステレオシステムの中のDVDプレイヤーだと敷居が高そうだ。テーブルの上のポータブルDVDプレイヤーだと或いは…。

しかし。そもそも、桜流しに限らず、"たった一曲だけ入ったDVDを鑑賞する"という行為自体が、人々の習慣にない。私にもない。桜流しのビデオを観たい時は、手元にあるiPodか、前に居るならPCで配信ファイルを再生するだろう。まぁ、DVDがトレイに入れっぱなしならそっちを再生するが、それは流石に"人々の習慣"から逸脱している。つまり、ここらへんが結構悩ましい。

話は、このビデオを鑑賞する時、我々はどのような態度を取っているか、である。そこら辺も絡めながら、前回の続きを次回に回したい。