無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

耳で察知して目で確認する筈のヒト

ミュージックビデオの持つ映像の「不必要さ」は宿命みたいなもので、基本的には拭えるものではない。映像というのは、それ単体で作品として成り立っているケースが非常に少ない。静止画ならまだしも、動画となるとかなりのケースに於いて、話し言葉も含めた音声が付随して作品として閉じる。実写ドラマだろうがアニメ映画だろうがニュース番組やデモンストレーションに至るまで、音声なしの動画をただひたすらじっと眺める機会はなかなか訪れない。

一方、音楽の方は必ずしも映像・動画を必要としない。それ単体で作品として成り立っている事がとても多い。音声だけを収録したCDなるものがあれだけ売れたのも、「音だけあればいい」と、無意識のうちにリスナーが思っていた事を意味する。でなければ、もっと"DVDシングル"という媒体が育っていた筈だ。

これは何故だろうかと考えると、案外不思議だ。聴覚という感覚の利点は、視覚と異なり360度全方位からの情報を受け取れる事にある。従って、"音がするとそちらの方を向いて見る"のが人間の、そして動物の本能だ。最終的には"音のした原因を目で確認"して一連の動作を終了する。音楽でいえば、歌っている人や鳴っている楽器を見て納得するのだ。

にもかかわらず、人は音楽を"音だけ"で満足しているように思う。でなければ、先程触れた通り、CDシングルよりDVDシングルの方が隆盛を極めている筈である。或いは、配信も動画が主流になる筈である。

この疑問に対する答を私は持ち合わせていない。ただ、ひとつ考えられるのは、この感覚は最近の時代特有のものなのかもしれないという事だ。つまり、ラジオや蓄音機の出現で、"音だけを出す機械"が人にとって身近になった事が大きいのではないか。音声を出さないテレビはないが(映像モニターはあるけど)、映像を出さないラジオは…それが普通のラジオだ。つまり、人は"近現代の習慣によって"、映像なし音楽のみの状態に慣れていったのではなかろうか。これには"電話"も加えていいだろう。目標物を視認する事なく、音声だけのやりとりで完結するという能力と習慣は、もしかしたらこの一世紀半限定の事かもしれない。糸電話やらをはじめとした導音器械の歴史自体は、もっと古いだろうけれど。

そういう"習慣"の身についた現代人にとって「ミュージックビデオ」というメディアの立ち位置は難しい…という話から桜流しPVについて語るつもりだったがちと長くなりすぎたようだ。次回に続く。