無意識日記々

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"俳句をモトに短歌を作るような"

そうか、COLORSから10年なのか。こういう場合「あっという間だった」というのが通例なのだろうが、僕の場合は「思えば遠くへ来たもんだ」という感じ。それ位に、ヒカルの10年分の成長は著しい。その積み重ねが遠大な景色として見えるから、やっぱり10年前はとても遠くに思える。年をとったら10年なんてあっという間というのは多分真実なのだろうが、ヒカルに焦点を当てて鑑みてみたらなんだかそういう感慨にはならなかった。長かったな、と思える。


話を前回の続きに戻そう。つまり、端的にいえばミュージックビデオって「要らない」のである。映像作品において音声部分は殆どの場合必須であるのに対し、音声作品にとって映像は必ずしも必要ではない。そういう認識にヒトが立つのは、ラジオや電話、蓄音機といった「音のみで成り立つメディア」に人々が慣れ親しんだ為だろう、というのが前回の見立てだった。

その慣れ親しみに依拠する事で、音声作品はそれ単独で娯楽として成立する自立性を持つ事を無意識裡に要請され、実際そういった作品が出来上がる。その為、映像はどうしたって"蛇足"にならざるを得ない。長らく"プロモーション・ビデオ"という呼称が使われてきたのは、それがテレビで音楽を流して貰う為の言い訳、方便である事の証だった。

そんな経緯である認識なので、私もこの連載を書きながらミュージックビデオだのビデオクリップだのとしっくり来る言い方を手探りしている。映像と歌の関係性。これを考え直してみないと、作品の立ち位置は見極め難い。


桜流しは映像ありきの作品か? 否。EVAQは確かに契機として重要ではあるが、作品としては互いに独立である。エンドロールでの威力は皆もご存知だろうが、別にあそこで「初めてシンの力を発揮する」訳ではない。真の、だな。この曲は単独で100%だ。完結している。

よって、河瀬監督は、ここは言葉を選びたいところだが、ヒカルと"共作"した訳ではない。まずヒカルが作品を完成させて、その出来上がったモノを素材として新しい作品を作り上げた。例えていえば、俳句を短歌に援用したような感じに近いか。例えば小説の挿し絵などに較べれば、あとから付け足す方はひとりのクリエーターとしての"エゴ"がある程度要求される。既に完成した他人の作品を渡されてエゴを載せろとは無理難題だが、ミュージックビデオとは結局そういう事なのではないか。最初っから音楽と映像のコラボレーションを狙うなら、両者は"切っても切れない関係"となる筈である。桜流しはそのケースにはあたらない。

となると、これはひとりずつ自立したクリエーターとクリエーターの、何といえばいいか…ああ、ややこしい事実が、桜流しにはあるんだな、そうか、河瀬監督とミーティングしている時の光はヒカルというより、2年前にGBHPVを撮影した"映像作家・宇多田光"であると考えた方がいいのか。であるならばこのミュージックビデオの制作は2人の"共同作業"であると言って差し支えないのかもしれない。ヒカルは曲を書き詞を書き歌も歌いプロデュースまで手掛けた訳で、更にその後に名を成した映像監督と話をした、というプロセスか。そうなった時には、自分の為した仕事を、まるで他人のした事みたいに客観的に眺める必要が出てくる。その目線を携えて、桜流しのミュージックビデオは作られている。どこまでが光のインプットかわからないが、次回はそこら辺から攻めてみたい。っていうかまだ桜流しの話になってない!