無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

vaccination & vacuum packaging

桜流しミュージックビデオの構成は明白である。1番が森、2番が街、後半が赤子である。この点は、素直に曲構成に従っている。

細かい所も少しずつシンクロさせているように思える。エレクトリックギターの明朗かつ哀感溢れるフレーズが嘶き響く時同じくして森の小径に木漏れ日が落ちる。後半、ドラムが激しくなる場面ではそれまでになくカメラの動きが早く、大きくなる。後半部分、導入は赤子でその後森と街のカットを経た後、「全ての終わりに愛があるなら」を歌い始める瞬間に、また赤子のカットに戻る。確かに、曲構成に準じたカット割りが為されている。

しかしだからと言って編集のテンポやリズムが、音楽のテンポやリズムとまるっきり同じかというとそうでもない。合っているような合っていないような、意識しているような、そうでもないような。今まで長々と「ミュージックビデオのあるべき姿」について書いてきたが、再度付言すると、この「つかずはなれずぐあい」がどれ位かによってビデオの評価が決まるのだ。それこそがセンスであると言っていい。言いたい。

しかしだからこそ、言葉で評価するのが難しい。どこまでも感覚の話で、定量的な比較論等に到達できそうにない。確かに、これ以上映像が音楽に寄り添い過ぎるとなんだか映像が音楽の付属物、従属物になってしまったようで何だか物足りないし、かといってこれ以上好き勝手されると「別に桜流しに合わせなくてもいいじゃん。」という事になってしまう。そのどちらの印象も受けないのだから河瀬監督は絶妙のバランスを具現化したのだと賛辞を送るべきなのだが、はて、どこらへんがどうだからと言うのが出来ない。いや、さっき書いたようにある程度はわかるのだ。ここはこの歌詞に合わせた、こちらは演奏のこれに合わせた、等々と。だが、では他の部分をもっと合わせたら行き過ぎになるのか、もっと合わせなかったらよそよそしくなるのか、どうも判然としない。確かに、これはこれでいいのだが、もっとよく出来たかもしれないし、これ以上は無理だったかもしれない。

ただビデオを観て歌を聴き、そして感銘を受けるという時、そのような分析は野暮だし邪魔ですらある。そこまででよいのならそこで止まろう。しかし私は、気に入った作品は出来るだけどこがどうだからよいものだと理解したい。でなくば、これは経験則だが、未来の自分に今の自分の感動を正確に伝えられないのだ。こうやって書き記しておくことによって私は感動の記憶を見失わずに済む。忘れる、とか覚えてる覚えてないの問題というよりこれは、自分が自分を誤解しない為の方策なのだ。

確かに、書く事によって感動は少し変質してしまう。それは避けられない。しかし、もうそこから先は変わらない。書いた文字はもう変わらないからだ。これは、予防接種の概念に近い。最初に自らわざと有り難くない変化を受け入れ、それを受け止め、自分の中に望まれない変化に対する耐性をつける。言葉で記す事はワクチン(vaccine)なのだ。そして、その予防接種によって感動は時の流れの中で真空パック(vacuum packaging)される。その為に毎度ああでもないこうでもないと書き悩んでいるのである。

桜流しのビデオは、確かに、素晴らしい。初めて観た時そう思った。それを一生掴んで離さない為、私はここでこうして話し続けるのです。ワクチンと悪戦苦闘する姿を暫しお楽しみあれ。