無意識日記々

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散らない花と響かない産声と部屋

音楽が先に出来ている、という前提で話を進めているが、これもあクマで仮定の一つである。宇多田河瀬ラインが、楽曲制作の過程のいつらへんに出来たかは、実際は定かではない。各種発言からある程度推測できるとはいえ、ね。もしかしたら、このコラボが、若しくはこのコラボの計画自体が、楽曲制作に何らかの影響を与えたのかもしれない。しかしここはひとまず、この仮定の上に立って話を進める事にする。

楽曲が先に出来ている以上、映像に課せられる制約は大きい。楽曲内容の変更を伴うよいアイデアが思いついたとしても即座に却下だからだ。かといってその制約を意識し、歌詞をそのまま説明するような映像を添付した場合、ビデオの"蛇足感"は増す一方だろう。さてその間の振幅で、2人はどこらへんをついてきたのか。

日本の自然、山並みを基調とした導入部は、確かに歌詞の云う『開いたばかりの花が散るのを』という場面の背景として相応しい。が、実際に花の散る映像を被せたりはしない。中間ではどこぞの街中の民家を撮影したと思しき映像が連なる。これは確かに『あなたが守った街のどこかで』に示す場面の具現化だが、この歌詞のモトになったEVAでの台詞が街全体を眺める俯瞰の位置からの発言だったのに対し、ここではまるっきり局所的な、まさに"街のどこか"、しかも室内のようにみえる。極々個人的な心象風景の投影は、"守った街"の俯瞰とは対極にあるといえる。

そして、そんな中でいちばん"歌詞そのまんま"に近いのが、『今日も響く健やかな産声』をベースにした赤子の場面である。産声というからには出産前後を示唆するのだからこれはもうそのままの映像と言っていいが、この赤子は静かだ。黙々である。産声をこの前に上げたのかもしれないが今は静かなものである。つまり、一字一句正確に映像化した、という訳でもないのだ。ここらへんの歌詞との距離感の取り方に、前回まで長々と論じてきた「ミュージックビデオはどうあるべきか」という命題に対する哲学が反映されているように思える。以下次回。