無意識日記々

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未来への積極性

何だろう、この、CDショップに足を踏み入れた瞬間に感じる「情弱感」は。

前々から、少しは思っていたのだ。CD屋と本屋は併設されている事が多い。レンタルもセルも含め。思い出してみれば、うちの田舎で初めてレンタルCDのサービスが始まったのはある本屋の一角ではなかったか。そのコーナーが日に日に拡大を続け、気がついたら本屋のかなりの部分を占めるようになって、挙げ句の果てには隣の土地を買い取って独立した店舗を構えていたような。

今は昔。

時は巡り。今本屋に立ち寄るとその"勢い"を感じずには居られない。特に漫画とラノベのコーナーは足を踏み入れただけでそのパワーに気圧される。私個人の偏見と先入観が大きいのかもしれないが、たとえお客さんが居てはらへんタイミングでもオーラを感じずにはいられない。出版不況とか言ってる人たちは一体何処に住んでそう言っているのだろう、とついつい思ってしまう。

それがCD屋はどうだ。レンタルCD屋はまだいい。人が来る。セルCD屋には人が居ない。HMVのやる気のなさはどうだ。近年はそんな風に感じていたが、今やそれすら通り越して、CDショップにやってくる事自体が情報弱者、"手元のスマホでググればすぐ聴けるのに、なんでわざわざ交通費使って3000円払って開封リッピングの手間掛けてんの?バカなの?死ぬの??情弱乙!"と言われているような気がしてならない。何という被害妄想。

いや私もひとのことなんて言えないのだ。洋楽主体だとどうしても輸入盤中心のお買い物になってしまう。だって一曲あたり換算で100円以下で買えちゃうんだぜ?円高万歳円安反対。国内盤を購入するのは、英語以外の言語で歌われている為訳詞が読みたいなとか(イタリアンプログレとかな)、レコード会社を支援して当該アーティストの来日公演を祈願するとか、何らかの+αというか、ただ音楽を聴く為に国内盤を買う事はまずなくなっている。

こりゃまぁ当然の話であって、ネットには無料の音楽が溢れていて原理的に供給過多なのだから聴く方がお金を払う事自体がおかしいのである。キャベツが穫れすぎたら値崩れを防ぐ為に出荷せずに潰す。しかし、インターネットの世界で音楽の値崩れを防ぐ為に出荷を停止するコンセンサスなんてとりようがない。アマチュアがいっぱい居るから。趣味でキャベツを育ててそれを見返りなしで配る人は世の中にそんなに多くはないが、自分で作った曲を聴いて欲しいアマチュアは腐る程居る。余りにも多すぎて人の心が腐るほどに。

となると、プロが為すべきは、その原理的供給過多の中で「私が出し惜しみしても他に流れない」魅力を打ち出す事であるのだが、なかなかそのレベルの"プロ"は…うーん、難しい。今までよりワンランク上のプロフェッショナルが求められる。先程の私の例でいえば、ただ音を聴いてみたい、という段階では買う気にならず、「是非ナマで観てみたい。その為に先行投資がしたい。」とまで思わせなければならなくなったのだ。ワンランクどころの話じゃないかもしれんな。

宇多田ヒカルは、今のところ、結構そういう"情弱"に支えられてきた感が強い。First LoveもFlavor Of Lifeも、何だか勢いで売れた。しかし、そんな市場はもうない。いや、あるかもしれないがとてもアテにはできない。結局、我々みたいな「出たら買う」ファンの存在が、ますます重要になってくると思う。この話は前に桜流しDVDシングルの売上が3万枚を突破した時にも出したが、それに今回話した"未来への積極性"の大切さも付け加えたい。ヒカルのLIVEが観たかったら、出来るだけフィジカルを買ってレコード会社にアピールする事。いや確かにたぶんまだまだずっとプラチナチケットなのかもしれないが、油断は禁物だ。勿論実力は疑うべくもないが、だからといって商売になるとは限らない。それを成立させ続ける為には、我々の未来への積極性が肝要なのである。まぁだからって欲しくないものまで無理に買うような真似はしなくていいよん。