無意識日記々

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わゐうゑを (Wa-Wi-Wu-We-Wo)

『ひらいたばかりのはながちるのを
 ことしもはやいねとざんねんそうに
 みていたあなたはとてもきれいだった
 もしいまのわたしをみれたならどうおもうでしょう
 あなたなしでいきてるわたしを
 Everybody finds Love Everybody finds Love
 in the end in the end』

という風に書いているが、これは歌詞の内容で区切った場合であって、メロディーの方で区切るとこうなる。

『ひらいたばかりのはながちるのを
 ことしもはやいねとざんねんそうに
 みていたあなたはとても
 きれいだった もしいまのわたしを
 みれたならどうおもうでしょう
 あなたなしでいきてるわたしを
 Everybody finds Love Everybody finds Love
 in the end in the end』

「みていたあなたはとても」で一旦切れるのがポイントである。ここで「とても」をとても引っ張って歌っている事にも留意。苦しい尺稼ぎ、という風に捉えてもいいが、ここで目一杯溜める事で「きれい」が更に際立つ。今迄しつこく説明してきたようにこの箇所では如何にこの「きれい」に焦点を集めるかに主眼を置いて音韻を配している。面白いのはそれだけ技巧を駆使しておいて「きれいだった」で切らずにそのまま「もしいまのわたしを」と繋げている所である。

その次の
『みれたならどうおもうでしょう
 あなたなしでいきてるわたしを』
は、「いまのわたしを」で一旦切る事でご覧のように字数が揃う。


「みていたあなたはとてもきれいだった」と
「もしいまのわたしをみれたならどうおもうでしょう」
に別れている2つの文章を、歌に合わせて区切り直すと

「みていたあなたはとても」
「きれいだったもしいまのわたしを」
「みれたならどうおもうでしょう」
「あなたなしでいきてるわたしを」

という風になるよ、という話なのだが、こうする事で見えてくる事が幾つもある。

まずは、定石どおり語尾に注目。「とても」「わたしを」「でしょう」「わたしを」の4つだ。「わたしを」が同じなのは見ての通りだが、「も」「を」「う」「を」という風にここでもオ段の音で末尾を揃えてある。一行目の終わりが「ちるのを」であった事を思い出せばその徹底ぶりがわかるだろう。更に、「おもうでしょう」と「わたしを」は殆ど語尾が同じ発音となる。「Wu-De-SHO-O」と「Wa-Ta-Shi-Wo」と書けばわかりやすいか。これが意識的である事は、「おもう」の歌い方で判別できる。日本語の歌で「おもう」が出てきた場合、ケースによっては「おもお」という風に歌う事が多いのはご存知だろうか。昔の歌を聞いてきた世代の方が馴染みがあるかな。それは兎も角、ここでのヒカルはキッパリと「おもう/O-Mo-Wu」と歌っている。踏み込んでいえば、ワ行の「う(Wu)」で歌っている。これは、「わたしを」の「を(Wo)」と母音まで合わせる為である。

音韻の構成は歌の歌い方に強い影響を及ぼす。これはほんの一例である。