無意識日記々

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直後の「ご」と直前の「こ」

『ひらいたばかりのはながちるのを
 ことしもはやいねとざんねんそうに
 みていたあなたはとても きれいだった もしいまのわたしを
 みれたならどうおもうでしょう
 あなたなしでいきてるわたしを』

『あなたがまもったまちのどこかで
 きょうもひびくすこやかなうぶごえを
 きけたならきっとよろこぶでしょう
 わたしたちのつづきのあしおと』

「うぶごえを」と「よろこぶでしょう」もまた繋がり合っている。まず、「ぶ」が共通にある。また、直接的ではないが、「うぶごえを」の「ぶ」は直後に「ご」があり、「よろこぶ」の「ぶ」は直前に「こ」がある。文末はそれぞれ「えを」「でしょう」、即ち「E-Wo」、「De-Sho-O」だから母音「えお/e-o」が共通している。

直後に「ご」、直前に「こ」があるといっても、メロディー上はそれぞれ別の位置にあるのだから韻を踏んでいる事にはならないのではないか、と言われそうだがその指摘は全く正しい。こういうのは韻を踏むとはいわない。

しかし、感覚心理上の効果はしっかり存在する。人は、本当に一言一句あらゆる音を順番通りに認識している訳ではない。ある程度ひとまとまりの情報を頭にいったん放り込んでから、そこでもう一度再構成して解釈するように出来ているのだ。視覚心理上で有名なのはこれだろう。

こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。

大抵の人はこれをスムーズに「こんにちはみなさんおげんきですか?わたしはげんきです」と読めるのではないか。多少文字の順序が違っても文章がスムーズに読めてしまうのは、ひとが一定のひとまとまりの文字を順序を気にせず情報処理して意味の通る文章に解釈する機構をもっている為だと思われる。

一覧性という性質をもたない聴覚ではこういった効果が生まれる余地は少ない。が、確実に存在する。ヒカルは、この性質もしっかり認識しているのだ。ひとまとまりの単位としてメロディーを捉え、その上に載せる歌詞の字の割合の配分を、多少順序が前後していても各メロディーで一定に保ったりしているのだ。

であるからして、直後の「ご」と直前の「ご」は、例え載る音符が違っても、ひとつのメロディーの中で一度出てくる"語感"として、リスナーに一定の影響を残す。作詞作りには、聴覚心理上の知識や理解も欠かせないのである。