無意識日記々

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加齢による選曲眼の成長について

選曲の、年齢による違いというのも興味深いテーマだ。17歳18歳の一年間、毎週選んだ楽曲たちのリストが残っている訳なので、それとどう異なるかを比較するのが楽しみだ。

が、果たしてそんなに違いがあるのかどうか、甚だ疑問である、と私が言ってみたくなるのは、それは例えば私自身の音楽の趣味が13年前と変わっているかと言われたら、全く変わっていないからなのだ。13年はおろか、20年以上ずっと"こんな感じ"だ。漸くこの間、モーツァルトを素直に楽しめるようになって歳を感じる、なんて事を書いたが、それは趣味が変わったというより無理やり抵抗していたのに遂に屈服した、というような意味であるので、それが趣味が変わったとなるかといわれると違う気がする。

例えば。歳をとると激しかったり賑々しかったりする音楽より落ち着いた味わい深い音楽を好むようになるかといえばさにあらず。昨年のベストアルバムにテクニカルデスメタルグラインドコアの作品を選出してしまったり。まぁこのジャンル自体年寄りの聴く音楽じゃんと言われると返す言葉もないが、取り敢えず私に関していえば歳をとって音楽の趣味が大人しくなる、というのはない。激しいものはより激しく、静かなものはより静かに、と"数を沢山聴いてきたからこその贅沢"を言う事は、増えたけど。

まぁそれは私の場合。宇多田光さんの場合はどうだろうか。彼女の場合、確かに本人はキャピキャピ跳ねてた頃のような溌剌とした元気さは薄れ、噛み締めるような楽しさが滲み出る女性に成長している。ぼくはくまでのはしゃぎぶりも、昔とはどこか違う。まだまだ童顔だが、年相応に落ち着いてきたとはいえそうだ。

しかしそれは、あクマで"アウトプット"の話。音楽を聴くというのは"インプット"だから、別に自身がはしゃがなくてもハシャいだ音楽を好んで何の問題もない。

いやそもそも、トレボヘの頃のテンションでも、選曲は多岐に渡っていた訳でな。モーツァルトAt The Drive-inも分け隔てなく掛ける。その精神は全く変わらないだろう。

という事は、選曲のセンスは13年前と何等変わる事がないというのだろうか。何かそれも、釈然としない。というのも、光は作曲家として、アウトプッターとして著しく成長を遂げてきたからであり、我々がそれをよくよく知っているからだ。そのプロセスを経る上で、インプットの方法論に何も成長がみられないとすれば、まさに不自然極まりない。光が音楽的に学んできた事が、選曲のセンスに如実に反映される筈だ。期待している。

…とハードルを上げて待ち受けるだけではつまらないので、コンポーザとしての成長を選曲に反映させる方法論とは具体的に何であるかをちょっとだけ考えてみる。

それぞれの要素が極端に強調されていたりデフォルメされていたり(例えばテンポの速い曲はより速く、とかコーラスハーモニーが何層も重ねられているならより分厚く、とか)する曲を選ぶとか、有名なミュージシャンのあんまり有名でない隠れた名曲を紹介する、とかそういった事も頭をよぎったが、うーんそれは大した事でもないな。

私が思うのは、どの曲を選ぶかという局所的な話ではなく、複数の楽曲を選曲する時に如何に体系的に紹介出来るか、という点がリスナーとしての成長を計るのに最も目安になりやすいポイントだと思うのだ。それは歴史的な把握でもいいし、音楽的なパースペクティヴでもいい。全然違うジャンルのこの曲とこの曲が似通っている、とかそのジャンルのいちばん代表的なスタイルの楽曲を把握するとか。(いかにもブルーズらしい、というブルーズ曲、とかね)  そういう事が出来るようになるのがリスナーとしての積み重ねの賜物、証だと思う訳である。選曲の体系化。これは年齢を経て得る能力のひとつであろう。



しかし作曲家宇多田光を思い返してみるとその視点にも問題がある…という話からまた次回。