LED ZEPPELINの"No Quarter"を聴いていると、この曲が、というより、このバンドが、というより、「音楽って凄ぇな」と素直に思う。まさに、スティーヴ・ハリスの言う通り、70年代のロック・バンドは「最初の1音を鳴らしただけで辺りの空気を瞬く間に変える事が出来る」のだ。音楽の持つマジック。今のバンドには残念ながらそこまでの威力はない。SLIPKNOTもOPETHもANATHEMAもいい所まで行っていると思うのだが。70年代の彼らのアルバムが3000円で買えるというのなら、そりゃあ他の今のミュージシャンたちの出すアルバムが同じ値段では割高に思えてしまうわな。
その"No Quarter"に連なる系譜の、ヒカルの楽曲といえばPassionだと9年前から書いているが、やはり本家中の本家と比較してしまうとその神秘性においてかなわない。一段も二段も上だなぁと思わせる。
しかし、今桜流しを聴くと、「あれ?そろそろ同じ土俵に立ててきているんじゃないの?」と思う。確かに、Passionを書いた時22歳、桜流しを書いた時29歳。7年分成長していてもおかしくはない。
なので、思うのだ。「ひょっとして作曲家宇多田ヒカルって大器晩成型じゃないの?」と。どうしても宇多田ヒカルというと早熟の天才で、14歳15歳にしてAutomaticやFirst Loveを書いた人だと認知されている。ファンでさえそう思っている。しかし、だとしたら売れてしまった事は本当に罪だ。売上の上乗せが期待できない事が、この大器晩成型のドラマツルギーに水を差している。
それは、本人にも影響を及ぼしているかもしれない。本来、桜流しのような楽曲を書いた人間は、その事を一生自慢すべきなのだ。誇りを胸に生きるべきなのだ。「私はもしかしたら大変な作曲家なのかもしれない」と鼻息を荒くするべきなのだ。それを、しない。「これが売れないだなんて世の中の方が間違っている」だなんて口が裂けても言わない。困ったものだ。なので私だけでも言っておこう。この作曲家はとんでもない。化け物だ。
本来は、こういった成長は本人の高揚感と共に語られるべきなのだ。それをしやい。そういう性格だから、がファイナル・アンサーだが、どうもそれで、周囲が、我々が誤解しているような気がする。アーティスト活動を休止していようがしていまいが、作曲家宇多田ヒカルは絶賛成長中である。もっと高まっていていい。
何なのだろうな、この、本人を覆う一種の虚しさのようなものは。切なさはまだいい。ヒカルが言うように、それはまだ我慢しているだけだから。虚しさは諦めの向こう側だ。確かに「テイク5」は名曲だし、結論は『生きたい』だから結局は美しいのだが、そのプロセスが、『あ、なんだ、私、生きたいんじゃん』だったのが、いいのか、悪いのか。その時まで、自分が生きたがっていた事に気が付いていなかったのだから。私の指す虚しさとはそういう事だ。
しかし、その虚無感はなぜかとても正しいなと私は思ってしまう。この国のか、この時代のか、或いは光個人のかはわからないが、それはある種の空気を正確に捉えている。その全体を覆う虚しさの中で、作曲家宇多田ヒカルは"結果的に"成長してきている。それは、成長の意志とも、上達の高揚感とも疎遠、いや無縁なものだ。それでいいのかどうかわからない。ガスみたいになりたい、結婚しても独りで居たい(それは別にいいのかな)、といった、充実から程遠い感覚の中で、今日も作曲家宇多田ヒカルは成長していく。その証は、次の曲を聴くまで全く我々の前に現れる事はない。恐らく、ヒカルの目の前にさえも…。