無意識日記々

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びっくりしっくり1回こっきり

『今の私は一個人としての自分とアーティストの自分で境界線がないというか、自分らしくしているのが仕事みたいなことなので。アーティストとして別ペルソナを立てるのは無駄だし、私には無理だっていうのは活動休止を決めた頃に完全に自覚したんです。そこからはただひとりの人間であること、それ以外の選択肢がない。』

これまたMUSICAからの引用。電子版を手に入れると抜粋しやすいからという以外に特に頻出な理由はない。便利は人を作るのだ。

さて、上記部分については「やっと腹括ったか」というのが正直な感想なのだけど、あれま、それを『完全に自覚』したのが『活動休止を決めた頃』なんですって。13年も前じゃないですか。早く言ってよもう…。

そもそも、この日記で「ペルソナ」という言葉を使い始めたのはヒカルが使ってたからだ。2006年6月18日に放送されたNHKトップランナー」において「ライブパフォーマーとしてのペルソナの成長が遅れている」とかいう文脈でね。(「プライベート」「クリエイター」「パフォーマー」という3つのペルソナの中で)

それを『無駄』『無理』と切って捨てたのは潔いというか。宇多田ヒカルに期待されるのは宇多田ヒカルらしくあること。うん、その通り。つまり、セルフ・プロデュース力が上がったともいえる。ここでプロデューサーとしてのペルソナがとか言い始めたら話がややこしくなるのでそれは避けるけど、

「私の仕事は宇多田ヒカルであることです。」

というのは、非常にわかりやすくなったわね。

そいで、「13年前から自覚してたんかい!」とびっくりするとともに、しっくりきたとこもあったのさ。ヒカルが自らのペルソナを区別していないのでは?とひとつ訝しんだことが、やはり13年前にあったのだ。そう、『Goodbye Happiness』のプロモーション・ビデオの監督を務めた際のクレジットが本名と同じ表記の「宇多田光」だったのよね。

これをどう捉えるべきか当時悩んだ。「宇多田ヒカル」という本名スレスレの芸名を立てる事によって仕事とプライベートを区別してきたのに、ここにきて本名と同じ表記でお仕事を? メッセでも『光』や『ひかる』の表記はここぞという場面でしか使ったことなかったじゃないですか。ファンと職業音楽家という立場を越えた、人と人との対話の中での真摯なメッセージを綴りたいときの為に。

それが、映像監督という、紛れもなく仕事の場面でのクレジットが本名って。別にそれ以後映像監督に転身した訳でも無かった。今んとこそん時1回こっきりの表記だ。

だが、こうやって『別ペルソナを立てるのは無駄/無理』ということを自覚したタイミングでの「自分にとっての新しい仕事」をするにあたってペルソナの区別を捨てた本名表記を使ったというのなら話は一気にわかりやすくなる。そこまで作詞作曲編曲歌唱のクレジットは「宇多田ヒカル」表記でずっと来ていたし、仮に歌手名を「宇多田光」にでもしていたらやおら話題にされてやりづらかったろうからね。改名直後に無期限活動休止って何さ!?みたいな風にね。

そう考えると、映像監督にだけ本名表記というのは結構な「控えめだけど確固とした、未来へと残るアピール」として絶妙だったのだなと、13年越しに納得した次第。いやほんま、そんな所に『完全に自覚した』証拠を残しとくだなんてクレバー極まりないやね光さん。いつなんどきでもあなたはあなたなのね。