無意識日記々

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日本語曲を聴かない日本語作詞者

宇多田ヒカルという名のアーティストが日本語で歌を書く必然性は、少ない。というのも、彼女自身は邦楽を殆ど聴かないからだ。インプットとアウトプットでは事情は違うとはいえ、情報量・データとしての日本語の歌のストックは少ない筈だ。

だからこそ独特の歌詞が出来上がってきた、ともいえる。既存の日本語詞の枠にとらわれる事なく(結果的に)大胆に作詞してきた事が、個性として認知されるようになったのだ。その為、ヒカルの歌詞世界は日本語曲の従来のどの路線の延長線上にもないものとなっている。

これは、ある意味では辛い。お手本となるような作品を過去に探す事は出来ないし、なんだかんだ言っても今の日本語の歌い手たちはそれなりに日本語の歌を聴いて育ってきているから現在の歌の歌詞もなかなか参考にならない。外からやってきた者はどこまでいっても他所者なのだ。

この現状において、たったひとつ参照できるものがあるとすれば、ヒカル自身が今まで書いてきた日本語曲以外にないであろう。まさに、これ以上に参考にできるものはない。だからこそ、自らの従来の作詞についてある程度客観的にならなければならないし、距離をおいてみてみなければならない。ただの再生産に陥る誘惑は、幾らもう大丈夫だろうとはいえ常に存在するからだ。

そう考えると、ヒカルが、宇多田ヒカルをも含めた邦楽全体を日常的に聴く習慣をもたないのなら、何故彼女が日本語詞を書いているのかが不思議になってくる。今までこれだけ命を削って生み出してきたものたちに、理由としての由来が何もないというのは、大胆なものだ。最初のキッカケからして「日本語の歌も書いてみれば」と人に言われたから、との事なのでそこに何らこだわりがあった訳ではない。それが大切なのは、ただひたすらに生み出してきたから、という以上にはないのだ。

ならばヒカルにとって日本語の歌を今後も書き続ける理由は、偏にそれが期待されているから、と、今までそうやってやってきたから、という事になるだろう。裏を返せば、やめようと思えばいつでもやめられるのかもしれない。ファンとの約束のようなものだから、と思えてくれるのであればそれは現実味を帯びないが、世界契約をもつ者としては、今後どうやって折り合いをつけるのか。動機の面においては、なかなかにあやふやなのである。