季節が季節だけにラジオからは桜ソングがしこたま流れてくるが、流石にまだ桜流しはかからない。SAKURAドロップスもそうだけど、試験に落ちた人にとってはハマり過ぎるのかもしれない。
それにしても桜流しは素晴らしい。このまま行くと私生まれて初めて三年連続再生回数No.1な楽曲と巡り会った事になっちゃうんじゃないだろうか。普段ラジオから流れてくる邦楽曲を聴いて積極的に「この曲はここがいいよね、そっちはサウンドが面白いね」といい所を探しに行く癖がついている私からすれば、日本語で歌唄うのもうコイツだけでいいじゃんという強烈なインパクトしかない。いや勿論英語曲でもこのクォリティーは稀なんだが、このサウンドストラクチャー、ドラマティックな展開、美しい旋律、漲るダイナミズム、絶品の歌唱力、といった私の大好物の数々を日本語で堪能出来るというのは幸せ過ぎて御免なさい満たされ過ぎてすみませんというレベルである。
女性ヴォーカルでドラマティックなサウンド、というのは英語でならそれなりにある。最近ではWithin Temptation、一昔前ならEvanescence、20世紀の大御所ならRenaissanceといった所が思い浮かぶが、日本語曲となると皆無である。Zabadakですら、女性ヴォーカル時代に遺した大作は数える程しかない。そんな中で、宇多田ヒカルのようなドメジャー・アーティストがここまでドラマティックな楽曲を書いてくるのは、それこそKremlin Dusk以来の衝撃だった。あの曲は英語だったが、桜流しは8割型日本語詞である。ここがとてつもなくデカい。
普段聴く歌入り音楽は殆どが英語な私だが、直接歌詞で歌われる世界を理解できるケースは殆どない。大概が歌詞カード(或いは歌詞サイト)と睨めっこして漸く情景が浮かぶのだ。
しかし桜流しは違う。慣れ親しんだ母語で、美しくイマジネイティブな歌詞が並び、即座にそれが情景を呼び起こす。この詩情の豊かさたるや、世界中の日本語のわからないUtada Hikaruファンの皆様すみませんと謝罪を申し出たい程である。その上この歌唱力。この人は本当に凄い。
なんで今こんな事を書いているかというと、First LoveやSweet&Sourによって齎されている「あの頃は凄かった」感に思い切り水を刺したくなったからだ。今日雨だし。宇多田ヒカルは今がいちばん凄い。いやそんな事はわかりきってますよとここの読者は言ってくれると思うが、今月で熊淡も甘酔も初恋も祭りタイムが収束していく中で、こういう事を実際に口に出して言うという事が重要なんだと思う。宇多田ヒカルは今がいちばん凄いのだ。何度でも書いてやる。
しかし、その"今"というのも2012年の話。流石に二年前では説得力に欠ける。この度の15年前回顧ムードに触発されて今のヒカルが「いや今の私の方が凄いんだってば」と自らの力を証明したくなってくれたりなんかしたら僥倖なのだが、そこらへんを「健気」の一言で片付けてしまうあたり、この人は余裕である。何も力んではいない。それもまたある意味「自信」のひとつのカタチだろう。じっと、私は新曲を待っている。あ、勿論英語でもいいですよ。フランス語でも、イタリア語でもね。