無意識日記々

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日本語の歌の価値を思い出させてくれる歌

普段は宇多田ヒカルをプロデューサー/アレンジャー/コンポーザー/リリシストとして評価する事の方が多い当日記だが、いやはや今回の歌手としての際立ちと来たらもう。最近はいつ日本語の歌が滅ぶのかと気が気でないのだがヒカルが歌っているうちは大丈夫。何百世代か経って日本語が絶滅した後にこの歌を歌い継いでくれる人が居なくなるとしたら寂しいけれど、これ読んでる人全員死んでるから関係ないやね。それに、こうやって録音さえしておけばいつか誰かが見つけてくれるかもしれない。今と文明が地続きなら音声から翻訳する事くらい朝飯前だろうし。まぁ1億居る日本語民が死に絶えるのに何百世代では足りな……戦争があったら一瞬か……。

朝から物騒な話はさておき、カバーアルバム作って貰いたくなるねぇ。歌手宇多田ヒカルの。前言ったようにカバー用の別名義を作ってカラオケ感覚で歌うだけでもその歌の作者は泣いて喜ぶと思うんだがだからこそ気楽に気軽にやれないんだろうか? ヒカルの活動の9割は創作で、そこの負担がないアウトプットはいい気分転換になると思うのだが。

世のプロにとって敵は締切と納期だけ。漫画家が休憩時間に何をして過ごすかというと落書きだというから恐れ入る。それにサイン入れて売ったらええ小遣い稼ぎになりまっせ、と関西弁にもなろうというものだが、それくらいのノリで歌ってくれたらいいんだけどねぇ。

なんというか、ヒカルが作った以外にも日本語の歌には素晴らしいものが沢山あるわけで。しかしそれでもなかなか歌唱がついてこれないというケースは散見される。「青いイナズマ」を歌われた時は吃驚したもんねぇ。歌い手次第でここまで変わるかと。でもま、そんなのヒカル自身がいちばんよくわかっている訳で、こっちからとやかく……いや、言い続けてたら何か変わるかもしれないか。言っとこ。

『少年時代(2019)』の歌唱を聴いていると、なんだかこう、そもそもの「歌の価値」というものを思い出させてくれていて。普段英語の歌なら胸を打つ歌唱というのはそれなりにやってくるものなのだが何だかんだで母国語ではないものだから歌詞に対して距離がある。訳詞を読んで「へぇ、そんなことを」みたいなテンションではやはり物足りないというか。

日本語の歌ならダイレクトに情景が浮かんではくるのだけど今度は歌唱力が覚束無い。いや勿論日本人で歌の上手い人は沢山いらっしゃるのだがラテン語で歌われても何にもわからないのよ。日本語で、となると極端に減る。

日本語で歌って尚且つこれだけの歌唱となると本当に滅多にお目にかかれず。結局宇多田ヒカルの次は宇多田ヒカルという流れになっている。その間、ついつい普段から「今どき歌を歌うなんてまどろっこしいことやってて意味あるのかな〜。言いたいことあったらTwitterで呟いたらいいじゃない。歌うよりずっとリーチがあるよ。」とか思いながら邦楽を聴いてたりするんだけどヒカルが歌う度にその感覚がリセットされていく。孤軍奮闘過ぎる。

今回王道で本当によかった。ヒカルが普段のキャラ通りに謙遜しまくってこう歌うのを躊躇わないのは何よりの僥倖だ。当たり前だが、プロフェッショナルとして自身の歌唱力に絶対的とも言いたくなる自信があるのだろう。でなくば16年前と同じアプローチで歌ったりはしない。本人は自分の姿をそっ閉じしたと言っているが、歌唱に不満があったのなら『少年時代(2019)』はこんなバージョンにはならなかった筈だ。そういう意味では普段の態度は紛らわしいことこの上ないのだが、かわいいからよしとしよう。それがいちばん卑怯だよね全くっ。