無意識日記々

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白い切なさ

曲のランニングタイムから『One Last Kiss』はアップテンポなのではないかという推理を行ったが、一方で、“曲名を目にして耳にして受ける感触”からはまた別の印象を受けた。それこそジャケットのアートワークのように白を基調としたような、どこかサラリとしかし胸を小さく強く締め付けるような切なさを秘めた曲を想像したのだ。

「切なさ」はヒカルの必殺技であり、これにノックアウトされてここまで来たファンは数知れず。私も何度もやられている。

『Beautiful World』はサウンドの透明感とツンデレな歌詞とアップテンポの曲調で序の若々しくエンターテインメント性に溢れた作風と見事に呼応していた。『桜流し』は、Qのもつ閉塞感の中からどうやって希望を見出すのかを教えてくれた。そう、あの映画、この歌に導かれたエンディングで終わってんのよね。だから、『One Last Kiss』は映画の作風との呼応でもまた万全な筈なのだ。

例えば、フレンチポップスやボサノバのようなあっさり風味のサウンドにヒカルの切ないメロディが乗っているというのはどうだろうか。ビリー・アイリッシュのお陰で随分囁き風味なヴォーカルも市民権を得たけれど、ヒカルが、ああいうのそのままという訳ではないけれど、熱唱でない中で独特の切ない声遣いを聞かせてくれたらちょっといい。いやかなりいい。

抑えた歌い方でも思いの強さを示す事は可能だ。『ぼくはくま』では、殆どのパートを一聴しただけでは宇多田ヒカルとはわからないような声の出し方で歌っておいて、最後の最後の『ママ』の一言だけ、ヒカルらしくあぁ歌った。これで人の心には届くのだ。押して押して押しまくるだけが表現ではない。

『One Last Kiss』という単語の並びには、どこかかわいらしさとか、洗練とか、小洒落た雰囲気が漂う。その横や下に『宇多田ヒカル』という名前が並ぶ事で、その語の印象がキャッチーで切ないジャパニーズ・ポップスの方に寄るのだからこの名前の存在感ときたらもうね。

「ジャパニーズ・ポップス」と書いたが、まだ日本語詞と決まった訳ではないわな。本家エヴァのテレビシリーズからして、90年代の夕方アニメだというのに全編英語詞の“Fly Me To The Moon”を毎週エンディングに流していたのだ。アニソン自体がまだまだJ-Popと距離があった時代にこれは暴挙と言えるものだったと思うが、そこからすればヒカルの歌う歌が日本語だろうが英語だろうがフランス語だろうが中国語だろうが別に構わない気がする。どんな言語であろうとあの声なら白い切なさを歌にする事が、出来るだろう。全幅の信頼を寄せる事をここまで躊躇わせてくれない人も他に居ないぜよ。