無意識日記々

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「Utadaからの言葉」

宇多田ヒカルの言葉』に寄せられた寄稿文八編はいずれも個性に溢れた興味深いものだが、どうにもこのままでは言及が足りないと痛感しているので一言だけ付け加えておこう。それは『Utadaの分』である。

Utada名義で発売された2枚のオリジナルアルバムは極一部を除き歌詞は英語である。よって今回の(縦書きの)『宇多田ヒカルの言葉』には直接関係ない。それはそうだ。

しかし、『宇多田ヒカルの作詞の何たるか』を語る上で、特に、日本語詞の特性を語る上でUtadaの英語詞は外せない。それは"引き算"として機能する。

宇多田にもUtadaにも共通する作詞の特徴が何かあるとする。例えば小道具としてPHSBlackberryが登場するとか失恋と別れの歌があるとか。そういった特徴は詞が日本語か英語かに影響されない。一方で英語詞でしかみられない特徴、例えば『The Workout』や『Dirty Desire』などの直接的な歌詞などのような特徴は、それが英語ならではだったり、日本語ではできないといった理由から生まれていたりという可能性が出てくる。

そう、Utadaの歌詞を検討する事によってヒカルが日本語詞で何をしているかのみならず、「何をしていないか」まで考察の対象とする事が出来る。この差はかなり大きい。禁忌とまではいかなくても禁じ手や忌み手、避け手などを通して宇多田ヒカルの日本語詞の個性をより一方進んで見極める事が出来る。その観点からみれば『宇多田ヒカルの言葉』にとって「Utadaからの言葉」は殊更意味をもつ。八つの寄稿文にはその視点がなかった。ヒカルの歌詞に対して分析的になるのは「気分じゃない」のかもわからないが、だからこそ今ここで指摘するのは大事なのです。