無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

大道草

"居心地のよさ"。人は情報に接する時、その具体的な詳細を知りたい訳ではない。本当に知りたいのはその情報の価値加減の方である。

つまり、端的に言ってそれはいいことなのかわるいことなのか。今後その話が出た時に怒ればいいのか笑えばいいのか泣けばいいのか。冗談をいえばいいのかもっともらしい顔をした方がいいのか。本当に知りたいのはそちらの方である。何時何分いつどこで誰と誰がどう何をしたか、ではなく、それに対して「私はどう反応すればいいのか」を知りたいのである。

そして、そういった情報の価値加減を与える人は、名前を出さない方がいいのである。何故なら、もし名前が書いてあればそれは"その人の"価値判断であり、私の価値判断はまた別に作り出さなければならない。人は、それができない。面倒だったり能力がなかったりで。自分で考えたくないのである。その時、誰かの価値判断をインポートするのがいちばんラクだ。そしてその時、誰かが表明した価値判断に名前がついていなければ、それを読んだ"私"がその文章に共感した事にして"自分の意見"として取り入れられる。この心理の構造があるから匿名文化は根強い。新聞記事をみた時、いつどこで何があったかという情報の具体的な記述が記名原稿である一方、社説やコラムなどが匿名なのはこのカラクリを体現しているからである。無記名が生む"大衆意識"はこうやって敷衍する。つまり、2チャンネルまとめサイトの"偏向"はそれがまとめサイトである限り必ず増長していく。まとめサイトの特徴、アイデンティティと言っ
てもいい。そこでは、両論を満遍なく併記して「あなた自身の頭で考えてみてください」と放り投げるスタイルはウケが悪い。偏向は、読み手からの無意識な要請によって形作られる。それは、メディアが新聞雑誌からまとめサイトに移行しても変わらぬ匿名文化の"伝統"なのである。

一方、名前と顔を出して自分の意見を堂々と表明する人が重宝がられる。所謂"ご意見番"の存在だ。日曜の朝に故・大沢親分張本勲が喝を入れるコーナーがウケたのは偶然でも何でもなく、一週間の情報を価値判断と共に頭に整理する際に、日曜日の緩んだ空気の中でご意見番に価値判断をインポートして貰うのは非常にラクでよいものなのだ。TBSがどこまで意図してあんなコーナーを作ったのかしらないが、非常によく出来ていたと思う。

匿名による価値判断との違いは、つまりこちらが議論に参加するかしないかだ。ご意見番に対して「ええこという」と頷いて終わり、という人間は議論なんてしない。信奉者を造って精神環境を整える。これが宗教の構造である。従ってそこにはご意見番のカリスマ性、顔と名前が重要になってくる。即ち神である。

匿名文化の方は大衆意識に基づいた"議論への参加"が基礎となる。そうやって醸成された思想は全体をうねりとなって覆い込む。人はそれを政治と呼び、1人々々は純化された数、"1票"へと転化してゆく。様々な政治制度が最終的に民主制に落ち着いていくのは偶然ではなく、情報の流通が保証されてゆく中では必然的な帰結なのである。それを妨げるには情報の統制が必要になるが、しかしそれすらも内在しているのが匿名文化の特徴だ。民主制が煮詰まってくると匿名のお化けによる独裁、即ち無責任の暴走が始まる。それをどうリセットするかで話は決まってくるのだ。

…前フリ話が長くなり過ぎたのでそろそろ打ち切ろうか悩み中。でもここ読んでるような人って案外こういう話って好きじゃない? どうなんだろうねぇ…?