無意識日記々

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鑑賞と操作

先週述べてきた通り、"3D"映画というのはその名とは裏腹にリアリティという面では音楽のステレオとは異なる位置にある。それは画面という空間的な枠とカット割り(視点の切り替え)という時間的な枠(或いは断絶)という点に関して、2Dと何ら変わっていない為である。

ここで本気を出して(ダブルクォーテーション抜きの)3D映画を作ろうとしても必ず"受け手側の選択"という壁にぶち当たる。彼らが瞬間々々でどこに居てどこを向いているかによって表現者の意図は全く伝わらなかったりするだろう。結論からいえば真の3Dコンテンツというのは「受け手」という存在ではなく「操作者」や「プレイヤー」といった存在を考慮に入れて初めて成り立つのだ。即ちゲームやアトラクションの類である。で、それは既にある。遊園地ね。実は凄く古典的な営みなのだ。そっちに行くのなら新たな作品論は必要なくなる。確かに、計算機の発達によって3Dグラフィックの計算が可能になり3Dプリンターなどの技術も発達してきたが、"そこで何をするか"という点に関して「映画」(テレビドラマやアニメやミュージックビデオも含む)というコンテンツは、実は居場所がないのである。この世界はあクマで平面の映像と音響によってしか成り立たない。ノウハウは、今まで以上には拡散しないだろう。

勿論逆からみれば、ゲームやアトラクションの世界は映画の世界のノウハウをどんどん吸収し続け、3Dコンテンツの幅をどんどん広げていくだろう。そこはもう大体一方通行である。

そして音楽の方は、これも先週述べたようにステレオで十分なのだ。実地には5.1chや7.1chといった技術が効果を発揮しているが、究極的には2chで事足りる。何故ならば、人には耳が2つしかなく、それが等方的なシステムであるが故、つまり、人が顔をどっちに向けているかによらない為だ。


ここまで来れば明らかだろうが、ステレオとか2Dとか3Dとか言った場合、いちばんのキーポイントは受け手側が「作品の鑑賞者」である事なのだ。3Dコンテンツは、受け手側が単なる鑑賞者ではなく「参加者」である事を強いる。3Dには受け手側に必ず選択の余地が生じるからである。いや勿論首も身体も固定化されて椅子が勝手に稼働するようなシステムも考えられるけどね。


で。こういう時代に入ってくると「映像作家」というのは自らの立ち位置についてかなり自覚的にならなければならない。それによって何をするか。自分の表現を他者に伝えたいのか、みんなにそこで遊んで貰いたいのか。もっと踏み込んで癒えば、"アーティスト"という存在の再定義の段階に来ているという事だ。3Dといっても、例えば陶器や磁気、彫像や彫刻といった静物ならばいい。時間という次元が1つ失われる分、3Dでも受け手側は「操作」や「プレイ」をする事が出来ず、鑑賞者に徹するしかないからである。

つまり、これからの時代はゲーム・クリエイターになるかアート・クリエイターになるか、はたまたその間のどこらへんに来るかを、視覚面では2Dと"3D"と3Dの区別が左右する事になるのだ。

そうなってくると"映像監督"宇多田光としてはどうしていけばよいのか…という話からまた次回。