無意識日記々

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映像作家か映像監督かはたまた?

ゲーム・クリエーターかアート・クリエーターかという話をした。ヒカルがいきなりゲームを作り始めるかと言われればそんな事はないだろうとは思うが、計算機とインターネットによって「作品作り」の枠組みがどんどん変化していってるのが今という時代である。

2つの側面がある。ひとつは今まで散々述べてきたように、3D技術の隆盛によって表現者ゲームクリエーター側に自然と寄っていくという事。もうひとつはコミュニケーションのスピードアップだ。フィードバックのタイミングと頻度が飛躍的に早く多くなってきた為、"作品作り"というものが、それこそ"全員参加"になりつつある。

毎度言ってるのがニコニコ生放送ツイッター連動型のストリーミング放送だ。コメントを拾い上げアンケートを設定しその結果如何で番組がリアルタイムで変質していく。"番組作り"だってクリエーターの仕事なのだが、フィードバックのスピードアップによってその共有具合はかつてないまでに高まっている。


そういう状況下において、ミュージシャンというのは如何にも古典的な職人芸でありはしないか。確かに、ヒカルの仕事場はラップトップにある訳だから計算機の発達と無縁ではないし、最新型のシンガーソングライターだという事も出来るが、そもそも家でひとりで詞と曲を作ってスタジオで歌をレコーディングするというスタイルは極めてオーソドックスだ。そこには勿論ゲーム的な要素が入り込む余地はないし、小刻みなコミュニケーションも存在しない。極端に言えば、恐らく数千年変わっていない伝統的なスタイルといえるだろう。こちら側は、何も変わらない。

しかし、映像監督としてはどうなるかわからない。そもそも、Goodbye Happiness PVは「歌ってみた」のパロディが軸となって作られている。曲作りの際の「何でもPC1台で出来て便利」とかいうのとは異なる、そもそもインターネットの存在ありきで制作された作品である。つまり、曲作りは、手間暇さえ度外視すれば自分でピアノの伴奏やギターのリズムを弾いてみて、パーカッションを友人に頼んで、みたいなアナログな方法論でも完成する筈だ。しかし、GBHPVは「インターネットでよく見るタイプの動画のパロディ」というある特定のメディアの存在を前提に作品が成立している。そこが大きく違う。

UTUBEにアクセスしたらYoutube(でお馴染みの"歌ってみた")のパロディをやっている、という"再生メディア"を指定して初めてこのPVの本領を発揮される。いわば、このGBHPVというのは、従来の「曲に合わせた映像作品」にとどまらず、その映像作品を中核とした"仕掛け全体"が作品になっているのだ。ここまで考えると、この仕掛けを仕掛けた仕掛け人の事を単に"映像作家"と呼んでよいものかという疑問すら擡げてくる。

つまり、メディアの指定やインタラクティブ性まで考えてヒカルがGBHPVを設えたとするとそのセンスは、もっと様々な可能性を孕んでいけるのではないかと思えてくる。こと音楽に関してはシンガーソングライターとして伝統的な曲作りに邁進する一方、映像を作らせてみればよりインタラクティブでより自由な発想のクリエーターとして成長していけるのではないか、そんな風にも思うのである。

ただ、どこらへんで彼女が線を引くか、というのは興味深い。音楽であれ何であれ、"創造の過程"でどこまで人の手を入れても構わないか。片方のいちばん極端はさっき触れたニコニコ生放送みたいな番組作りだ。あれはまさしく"みんな"で楽しい時間を作り上げている。そこまで極端でなくても、ヒカルがものづくりの途中でファンからの何らかのフィードバックを受け取る事によって作品作りを前に進める事はあるだろうか。根っからの孤独なシンガーソングライターがそんな事をするか? 音楽以外の分野に手を広げるなら、そういう点での差異も出てくるかもしれない。

とはいえ最もありそうなのは、今まで通り音楽中心に活動していくスタイルなんですけどねー。


それに、ミュージシャンには、インターネットや計算機に頼らなくても"みんなで作り上げる作品"が必ずと言っていい程存在する。それがライブ・コンサートだ。次回はそこら辺の話から…かな?