無意識日記々

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以下全部余談。

照實さんによるとHikaruは元気だそうな。それはよかった。いちばん知りたいのはそこである。番組をやろうが休もうがこの際どうでもええ(極論)。寧ろ「やる気満々」の方が気になる。あ奴は動けるとなるとすぐ過剰に頑張るんだから…こちらは一般庶民として「ほどほど」とか「ぼちぼち」という世界観を教授したい位である。

「儲かりまっか」「ぼちぼちでんな」―このやりとりが出来るかどうかが、経済社会の健全性を左右する。誰かが儲けすぎとは早い話が資源を無駄にしているに等しく、損失は勿論それ自体が損失である。働いた分がちょうど返ってくる。返ってきた。これが最も理想的な均衡状態なのだ。

しかし、このロジックに最も相容れない存在が現れた。インターネットである。本来パソコン通信の一種だが最早デファクトスタンダードなのでホッチキスや宅配便などと同じように使ってしまう単語だ。それは余談だが、貨幣経済の目指す均衡とは全く別の世界観を、インターネットはもたらした。

何しろ、情報というのは喪われない。私が何かを書いてあなたがそれを読んでも、私からあなたに"移る"ものは何もない。その代わりどこまでも"写り"続ける。要するに無限増殖である。ここには"ほどほど"も"ぼちぼち"も存在しない。私は読んでいるあなたに何も要求しないし、そもそもあなたがそうやって今この文章を読んでいる事すら知らない。しかし、私が今考えている事や感じている事を今あなたは断片的にでも考えたり感じたりしている訳だ。私が写り、私が伝染る。その間やはり私は何も喪わない。

生きてりゃ得るもんばっかりだ、と言った人が居る。これは妙味だ。私たちがお金を渡す時、必ず私たちが等価であると納得したものを相手から譲り受ける。理想的にはね。これをただ"喪う"というのはあたらないだろう。代わりに何かを得たのだから。ただ、差し引きゼロという感覚はあるかもしれない。それがほどほどでありぼちぼちなのだが、インターネットにはそれがない。私の書いた文章をあなたが読んでいる。失ったと言えるならもうそれはお互いの時間だけだ。印刷技術の発明もそれに近いインパクトを残したがインターネットにはかなわない。すべては写されて圧倒的に増えていく。私が消さない限り、消える事はないし私が消しても世界のどこかに残っているかもしれない。いやはや、大変な時代だ。

ここでは、損得を唱える事すら厭われる。出来るのは、どれだけいい時間を過ごしたのかという感想だけだ。

実際、例えば先月熊泡の再放送にでくわした時、「急いで帰ってきて損をした」と思った人はどれ位居ただろう。あんまり居なかったのではないかな。寧ろ、「改めてもう一回聴けて得した気分」「先月聴けなかったのでよかった」という声の方がずっと大きかったのではないか。ここではもう既に「生きてりゃ得るもんばっかり」になりつつある。Utada Hikaruがたぶん、どんどん写って伝染っていってるのだろう、かな。