無意識日記々

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台無し。

宇多田ヒカルも、嘗てのユーミンのようにデビューしてから20年近く経ってから(売上という意味での)キャリアのピークを迎える事もあるかもしれない、という話をしてきた。実力的には申し分ない、というか有り過ぎてそれが弊害になりかねない位だし、潜在的な人気や期待度も高い。名はもう消えるレベルではない(寧ろ日本語や日本国の寿命の方が心配だ)ので、あとは実現させる為の労力と時流と機運だろう。

しかし、ヒカルがユーミンと大幅に違う点があって。それは、日本以外の国にも市場があり英語で歌も出しているという事だ。ここらへん、なかなかピンと来ないかもしれないが、In The Fleshの映像が観られた暁にはそこに、その地にUtada Hikaruのファンが居る、という"感覚"がわかるかもしれない。バブルでもアイコンでもなく、ただそこに居たいという"感じ"がそこにはある。虚像でも虚偽でもなく、Hikaruはその地で愛されている。

この点をどうみるか。日本という国は特殊な市場で、Pop アーティストとしては日本で売る為には日本に特化した音楽を作らねばならない。日本語で歌う事をはじめとして、ね。アメリカにもそういうドメスティックな所もあるが、基本的には「アメリカで売れれば世界中で売れる」というのがパターンだ。それを、日本人として初めてやってもらうというのもアリかもしれない。

ユーミンに限らず日本の優れたアーティストたちは歌を国際的に響かせようとはあんまり思っていない。それなら英語で歌うだろう。そうなっていないのは、そもそも日本語で歌を歌うのが当たり前過ぎてそういう発想がないからだ。Hikaruの場合は逆である。元々日本語で歌う発想がなくて、やってみたらと言われて始めたら超特大ヒットになってしまった、というのが流れだ。ここでも、日本市場の特殊性がアーティストに及ぼす影響の質というものをみる事ができる。日本語で歌う発想のなかった人間が、以後の半分以上のキャリアを日本語中心の歌で埋め尽くす事になった。ここに居たらこうなるのである。


もしかしたら、その意味で、次の一手は恐ろしく重要だ。ユーミンのように市場の特性を見極め市場にアジャストしこの国に新たな段階の邦楽シーンを形作る先鞭となるか、初心に立ち返って英語の歌を歌うか。恐らく10年位は、どちらかに振れてしまうのではないか。最初の12年でわかった事は、「"二足の草鞋"には無理がある」という事だ。勿論いちばんみてみたいのはその無理を突き通して道理と成す所まで行く場面だが、それで健康を損なったら元も子もない。


ここは、判断が難しい。流れに任せるか、意志を貫き通すか。貫くなら何を貫くのか。難しい事を考えずに出来た曲をそのままリリースする、なかには、英語の歌もあるだろうし日本語の歌もあるだろう、その時次第でいいんじゃないか、というリラックスした態度はいちばんありそうな所だ、が、そこからは"キャリアのピーク"は生まれない。やはりPopアーティストとして何らかの狙いや方向性を、事前だろうが事後だろうが持ち合わせるべきだ。



いちばん困ってしまうのは、こういう熱弁をふるっている私自身は、Hikaruが日本語の歌を歌っても英語の歌を歌っても楽しんでしまう上に、売上のキャリア面に関しては「そうなったらそうなったとき」としか考えていない事だ。今日書いた総てのコトが、正直どうでもいいのである。いい曲を書いていい歌を聴かせてくれればそれが満足だ。最もシンプルで最も難しいこの業をこの15年間遂行してきた人への期待の色合いは、もうそこから変わりそうにない。