無意識日記々

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もしもBOX使ったらこんな感じ

で、今まで心配していたのは日本の「宇多田ヒカル」の方で、インターナショナルな「Utada Hikaru」の方は全くと言っていいほど心配していない。世界中を探せば、必ずHikaruの歌にはニーズがあるだろうからだ。

何より、スタイルで悩む必要がないのは大きい。日本語で歌うヒカルはその「ノージャンル」こそ得手であり、いい意味でもそうでもない意味でも"無節操"な日本の市場にマッチしていたが、それは海外、特にキーとなる米国では難しい。

「This Is The One」は、あらゆる意味で答になっていたように思う。特に、シンガーとしてのUtada Hikaruの特質・長所を省みた場合、このアルバムのA面の5曲は「Hikaruの最も得意とするところ」といえるだろう。そことメロディー・メイカーとしての才能の化学反応。所謂、マイナー・キーを主体としたソウル・ミュージックである。

ソウル、という括りをしたが、つまりはブルーズとジャズからリズム&ブルース、そしてR&Bと連綿と一世紀にわたって米国に根付いているブラック・ミュージックとその白人的解釈の世界だ。ここはマーケットもハッキリしているし、足場としては非常に魅力的だ。そして、これだけの歌唱力とメロディーがあれば、どんなに知名度の無い所からでも成功していける。年齢国籍性別関係無く、これだけの実力は十二分に世界のどこでも通用する。米国がインターナショナル・ポップ・ミュージックのメインストリームを形成してくれたお陰で、どの国でもこういった音楽には認知度と需要がある。ここで英語に何の問題もないというのは強い。

つまり、「This Is The One」の路線のアルバムをコンスタントにメジャー・レーベルから発表し、In The Flesh 2010のクォリティーのツアーを続ける事が出来たなら、日本人とか何とかいう付帯条項抜きで、ソウル・ミュージック寄りのポップシンガーとして生きていく道は必ずや開かれると思われる。勿論運も必要だけど。

商業音楽の世界では、"変わらない事"は何よりも強い。年月を経てファンを獲得し続け離さず、活動のベースとベースを守り続ける事が肝要だ。時には時流に合わせたスタイルの変化を取り入れる事が必要になるケースもあるが、それは大抵ミュージシャンにとって"どうでもいい部分"に適用される。小津の金言である。「大切な事は信念に従い、どうでもいい事は流行に従う」(あれ、なんか不正確な気が…)

Hikaruに関して言えば、「This Is The One」で確立した"スタイル"をずっと貫けばよい。波瀾万丈はあるかもしれないが、あのクォリティーを維持し続けられるなら、音楽活動にコンセプト的な心配をする必要はない。寧ろ、売れなかった時に如何に踏ん張るかに焦点が定まるだろう。

日本市場にはそれが期待出来ない。得意な路線は英語の場合と変わらず、日本語の曲でいえば"Prisoner Of Love"のスタイルだろう。実際、この曲はUTUBEにおいてずっと過去4年間Goodbye Happiness & First Loveと共に"スリートップ"を形成し続けている。この曲の人気、この作風への期待は大変高い。しかし、市場がない。今こういう曲を日本で出したとしても、人気は出ても誰も買わない可能性がある。Prisoner Of LoveはCDは売れなかったが、デジタル配信合計からみると"ミリオン・セラー"の楽曲だった。6年経った今の日本にそれが期待出来るかというと心許ない。世界中を見渡せば、もしかしたらこの日本のように"国内音楽市場の壊れた"国が出てくるかもしれない。しかし、総ての国が駄目になる訳ではない。インターナショナルの強みはそこにある。どこかの国で売れればよいのだ。

そして、そういう"スタイル"を確立すれば、もうひとつ小さないいことがある。それは、"日本の洋楽ファンがここに来て漸く振り向いてくれる事"、だ。今まではHikaruはヒカルと同一人物という事で英語で歌ってすら見向きもされないケースも多かった。日本の洋楽市場は伝統的には邦楽市場の15%にしか過ぎないが、熱心さに関しては遥かに上だ。邦楽オンリーの人は、聞いた事も見た事もない洋楽アーティストが武道館を満員にしたニュースを聞いてキョトンとするだろうが、大体そういうもんである。Utada Hikaruも、インターナショナルなアーティストとしてのキャリアを積めば、そこでやっと"強固なファンベース"というものが築けるだろう。めでたしめでたし。

…勿論、それで話は済まないからこんな風になっている。気になる(?)続きはまた次回。