無意識日記々

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奇妙な果実のカバー曲

先月来日していたというカサンドラ・ウィルソンによるビリー・ホリデイのカバーが素晴らしい。彼女の歌はKUMA POWER HOURでも一度掛かった事があるので名前に聞き覚えがある人も居るかもしれない。今年はビリーの生誕100周年という事で企画されたらしいが、いやはや。特に"奇妙な果実/Strange Fruit"の化けっぷりには戦かされた。

何が凄いってもう原曲の面影が殆ど残っていないのにそれは依然として奇妙な果実のままであって、更にそれが原曲を上回る名曲に仕上がっている事だ。宇多うたアルバムで我々も随分と良質なカバーの数々を聴かせて貰えたが、もうまさにこれは「格が違う」し「レベルが違う」。私はビリーやカサンドラの熱心なファンではないから大局的な視点からは語れないけれども、ロック・ファンとして、原曲を大きく飛躍させたという意味で「まるでLED ZEPPELINの"Babe I'm Gonna Leave You"のようだ」という賛辞を捧げたい。

米国ではビリーの生誕日に合わせてアルバムを先週の4月7日に発売したというからそろそろビルボードの結果も出ているだろうか。サウンドはモダンではあるがとてもキャッチーとは言えない挑戦的な作風がどこまで売れるかは興味がある。熱心なビリーファンはもしかしたら眉を顰めるかもしれないし。


あーあ、と溜め息を吐く。こんな売れ線から遠そうなアルバムが、アメリカでは堂々とメジャー・レーベルから発売されるのか。Hikaruも、こういう場所で"勝負"をするべきなのに、と思った。

ライバルとまではいかなくとも、同じ時代にリアルタイムで強くインスパイアしてくれる作品・アーティストは必要だ。全くモチベーションが違ってくる。Hikaruは周囲に左右される方ではないし、シーンやジャンルといった語からは距離を起きたがるが、こういう一撃には刺激を受けるに違いない。願わくば、こういった作品が出てくる"界隈"に、Utada Hikaruの名前を見付けてみたい。

Hikaruは日本の市場をどう思っているのだろう。KUMA POWER HOURを一年間聴いていた人たちならわかると思うが、日本語の歌は極僅か。殆どが英語の歌だった。邦楽にもいいものはあるが、全体として評価しているかといえば否である。なのに何故日本語で歌い日本市場で売るのか。「余りにも日本語の歌でまともなものが少ないから私が作るしかないだろ」というのならわかる。不遜でも何でもない。Hikaruのレベルからすれば当然である。それは、ミュージシャンの人たちこそ痛感しているだろう。あの天才・井上陽水が"崇め奉る""一緒に食事すると緊張する"とまで言うのだから。


Hikaruは、他の日本人ミュージシャンたちと違って、日本でしか契約を取れない訳じゃない。もっと刺激を与えてくれるミュージシャンが他にも沢山居る場所でリリースとライブをする事も可能だ。日本では歌唱力で図抜けているとは言っても、例えばそれこそカサンドラ・ウィルソンより巧いかといえば否だ。Hikaruもそれは認めるだろう。そういったレジェンドたちと比較されるようなところで活動した方がHikaruも幸せだろう。

英語を歌う歌手としては、多分、Hikaruはある程度"埋もれてしまう"とは思うが、作編曲面も含めた総合力でなら世界のどこに出しても目立つだろうと思う。例えば先述のカサンドラによる"奇妙な果実"より、"桜流し"の方がトラックとしては凄まじい。ただ、日本語を解さない人間にはその凄みが伝わらないのが悔しいのだけれども。あと、サウンド・プロダクションは完敗であるから、なかなか同じ土俵とまではいかないが、もし桜流し並みのパワーで英語曲を書く事が今後コンスタントに可能ならば、今の年齢からだってUtada Hikaruが英語圏でレジェンドになる事も可能だろう。Hikaruには、可能性を制限して欲しくない。いや勿論日本語でも歌って欲しいのだけど、やれるだけやってくれた方が、こちらも清々しいというものなのだ。