無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

大半の読者に興味の無い四方山話

さてこの半年市場だの何だのという話をさんざしてきたのでそろそろ切り替えよう。マーケットやシステムの話は「誰に」「どうやって」伝えるかの話。もっと作品自体を掘り下げよう。「何を」伝えるかの話だ。

Hikaruの作品は音楽を通して何を伝えてきたか。

この問い方自体間違いだと私は言い切る事もできる。音楽を通してではなく音楽そのものを伝えてきた、といえばもう解決なのだから。貴方の耳にしたものが伝えたかった事。Let the music do the talking. もうそこに総てが表現されていると。

その意味では器楽曲は楽園思想、instrumentalはUtopiaなのだが、Hikaruは歌う。ハミングでもボイス・パーカッションでもスキャットでもなく言葉にして歌う。そうなると、通すのは言葉の特性だから、歌を通して我々は何かを伝えられている。極上の詩ならば、言葉そのものが伝わってきた事になるが、その領域の話はまだ早い。

日本語で伝わる人は英語ではなかなか伝わらず、英語で伝わらない人はなかなか日本語では伝わらない。どちらも受け止める人は本当に少数である。熱心な人は辞書を引き引き対訳読み読みしながら咀嚼していく。様々なフェイズがある。滅多に日本語版と英語版の両方を書かないし、書いても裏を掻いていたりまるで異なる物語だったりする。Hikaruの伝える事は、2ヶ国語故より多くの人に伝わるが総てを受け取る人は相対的に少なくなる。この構造ではマニアを得るのは難しい。余談だけれど。

なので、Utada Hikaru全体で歌詞で何を伝えてきたかを論じる意味は希薄かもしれない。総てを受け取る人が希薄なのだから。ならば一曲々々に具体的に踏み込むのがいい。更にそれを通して何かを見ようとはしない、という結論にはなるが。

ここでいつものテーマを持ち出そうか。Hikaruが、Message from Hikkiを余り用いずたまに出てきてもTwitterで済ますのはそれで事足りているからだ。今の言葉の消費の仕方はあの140文字程度の一言が主軸になっている。毎度言うが、わざわざ言葉を歌詞にしてメロディーに載せるより、ツイートして10000RTされた方が人にすぐ伝わる。

歌にすれば記憶に残りやすい、というのは確かにある。メロディーと共に言葉が、更にはその時の思い出も連れてくる。しかし、何かそれは消極的な利点であるように思う。

メロディーを歌詞につけるのは大抵苦行である。それを放棄してリズムのみを相手にしバックトラックにメロディーを任せたのがラップ/ヒップホップの方法論だった。日本人も随分とラップをするようになったが結局70年代フォークの焼き直しに近い。如何にも日本人らしくて微笑ましい。

今ならもっと楽かもしれない。詩を書いて、バックトラックを作り、Youtubeに字幕をつけて上げるのだ。それぞれ別モノだが、それはそれで作品である。詩が物語になればサウンド・ノベルだ。今なら合成音声に読ませる事も出来る。


つまり、音楽と詩、或いは詞との関係性は多様性を増し、多岐に渡れる。そんな中で昔ながらの"歌"を選択するには、沢山の理由をくっつけるか、或いは「そういうもんだから」と何も考えずに歌ってしまうか、どちらかになる。私など「伝えたいことがあるんだ」なんて云われたら「Blogに書けばいいじゃない」とすぐ言ってしまうタチなので始末が悪い。

恐らく最もシンプルな理由を考えるなら、メロディーに歌詞をつける理由を考えるならそれは「歌う為」だろう。ならばとてもわかりやすい。歌詞に意味など求めず、歌う事自体が目的なら何か言葉を載せなきゃならんだろう。

しかしそれは今までのヒカルの芸風ではない。彼女の言葉には情緒があり物語があり思念があり美学がある。伝統的な手法がよく似合う。ただ、やっぱりMessage from Hikkiを書かなくなっているのは、それがただ人間活動期間だからという理由ならいいのだが、そうでないとすると少し考える。言葉の役割が、ヒカルにとっての言葉が、変わってしまっているかもしれない。さて、どうかな…。