無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

すり替えられた評価基準

何だかんだ言って、再生機器の音質というのは重要なのではないかという気がしている。

受け手は、画質のよしあしには自覚的だ。4Kテレビ批判にしたって、「確かに画質はよいけれど…」という、画質の良悪の判定がなされた上で入ってくるが、これが音質の話になると途端に「私は音の良し悪しなんてわからないから…」と後退られる事が多く、即ち音質については話題になる事すら避けられている。

がしかし、自覚はなくとも、音楽に対して評価を下す際に音質が無意識下に影響しているのは大いにありそうな事だ。そして、無意識下であるが故にその評価判定の自覚的な理由付けは、もしかしたら作詞や作曲や演奏や歌唱といった、他の音楽的要素の方に間違って偏っているかもしれない。つまり、音が悪いせいで「最近の曲はつまらないなぁ」という判定が下されているのかもしれない。だとしたらこれはゆゆしき事態である。

視覚面では、この20年間で大いに進歩した。テレビは総デジダル化され、DVD画質とは高画質から低画質の象徴へと意味が変化した。スマートフォンの解像度は最早凄まじく、そんなに克明な写真撮ってどうすんのという感じ。

聴覚面では、寧ろ事態は悪化している。ラジカセやミニコンポは姿を消し(は大袈裟かな)、スマートフォンのデジダルアンプやスピーカーは心許ない。それだけならまだしも、本来音楽消費の主軸になるべきipodの付属のイヤフォンなんかは音質があんなであり、スピーカーなんかそもそもついてたりついてなかったりだ。音質はどんどん蔑ろにされている。こんな状況が続いたせいで、音質ではなく、音楽そのものの評価が下がっているとしたら。

実際、音質がいいと、お金を払う価値みたいなものが感じられる、というのはかなり大きいと思う。ちゃっちさではなく、隅々まで精魂込めて磨き上げられたサウンドは、楽曲や演奏や歌唱の良し悪し以前に、「商品」としての佇まいを保証する。そこらへんの感覚を演出できるようになれば、「音楽にお金を払おう」という機運がまた戻ってくるかもしれない。


なんて言ってるが、Utada Hikaruの場合は音質の良し悪しなんて関係ない、というか音質が悪くても響いてしまえる歌を歌える、のだ。そんな話からまた次回。