無意識日記々

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#風立ちぬ レビューその3

「絵が動いた!」「動いてる!」「空を飛んだ!」「飛んでる!」という原初的な感動を掛け合わせて全編を貫いた傑作「風立ちぬ」。その2つの原初的感動を共有できる人に対しては必ずや大きな感動を与えるだろう。

そもそも、「絵が動く」という"事実"は傑出して摩訶不思議なものである。本来「動く」という現象には「力」が不可欠だ。押したり、引いたり。くっつきあっているモノ同士が「力」を及ぼしあってそこで初めてモノが「動く」。近代以降の認識として、ではあるがそれが人間の常識であった。

しかし、アニメーションはその常識を覆した。そこには何らの「力」も加わってはいない。ただ我々は最初の一枚の絵を見て、次の一枚を見て、更に次の次の一枚を見て…を繰り返すだけだ。なのに絵が「動き出す」のである。これは21世紀の現代にとっても深刻な不思議である。そもそも運動とその認識とは何なのか…いやそんな面倒な話はこの映画には関係ないぞ。徹頭徹尾「絵が動いた!」と嬉しがり続けるのがこの映画の楽しみ方だからな念の為。


一方、現実の世界には「目に見えない力」というのも存在する。つまり、何かに直接押されたり引かれたりしていないのにものが動いたりする現象の存在である。

その一つが"地面からの力"、「重力」である。この見えない力が我々を地面という2次元に縛り付け自由を奪っている。

そしてもう一つが、この物語の主役「風」である。勿論我々は知識としてそれが空気分子という"モノ"の衝突である事を知ってはいるが、本来は"目に見えない力"の象徴として「風」はあった。それは、地面に縛り付けられた我々を大空へと飛び立たせる自由の象徴である。そして、それは同様に、どこからも力がかかっていないのに絵が動いてしまうアニメーションの摩訶不思議さと波長を同じくするのである。断言しよう。宮崎駿にとって「風」とは、アニメーションと、そのアニメーションに対する情熱の比喩なのである。前回強調したように、人が今まで縛られていた次元から新しい次元へと踏み出す原動力、それが空を飛ぶ事、絵が動く事の感動と共に描かれているのが本作である。そして、人が空を飛ぶ事を可能にしてくれる何かが「風」であるならば、その「風」に押されて絵を動かすのが宮崎駿監督だ。その「風」とは、彼とその仲間たちに漲るアニメーションにかける情熱の事に他ならない。

アニメーション映画「風立ちぬ」のメイン・テーマ、メイン・モチーフは、従って、紛いも迷いもなく「風」である。ここまで正直なタイトルも珍しい。そして、この点から出発すれば本作品の「真の(芯の)魅力」があからさまな程に明らかになってゆく。次回からはその点について触れていこう。