無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

無責任日記

様々な事が絡み合っているが、どぎつい言い方をしてしまえば、日本語での活動がHikaruの"枷"になってしまっている、という事だ。

作家としても作詞家としても、最初っから英語でと割り切ってしまえば実は何の問題もない。Hikaruの才能は日本という国に留まらないより広範な価値を提供できる。寧ろ、日本語という制限がその可能性を狭めている。

これは、ヒカルは基本的に時流とは一定度の距離を置いてはいるが、どの産業にもかかわらず起こっている事だ。時代の流れからグローバル化は避けられない、しかし、この日本という国が非常に史上として大きい為、今ココに特化する事がベターだ、という判断でずっと仕様がローカライズされたままになる。i-modeが出てきた頃は世界的にも最先端だったがスマートフォンの頃には後塵を拝していた、なんてのは典型的な例かもしれない。俗に言うガラパゴス化だが、外からみればUtada Hikaruも同じ事だったのかもしれない。

今まで十二分に日本語歌を堪能してきた身からすればこれは言いがかりもいい所だし過去の思い出を"枷"として否定されるのはいい気分がしない。だが、この点に留意する事は重要である。

しかしそもそも、グローバル化と言っても、よくよく状況をみてみれば、ひとつひとつのコンテンツにとっては"新しいローカルを開拓する"話でしかない。ある特定のアーティストのファンになって貰える人間が、その地域で1000人に1人も居れば十分、といった考え方も出来る。

少し極端に考えれば、今後日本から人間が流出していく事態が加速したりすれば、全世界的に"日本人コミュニティー"が点在する事になり、それらに対して日本語コンテンツを提供していく事が未来のグローバリゼイションになるかもしれない。案外わからないものである。それこそ結局、Hikaruがどういう生き方をするか/選ぶかでしかない。

未来は誰にもわからない。ならばまず届く人に届けよう。それでいいと思う。しかし、どちらに偏る必要もない。「今までどおり」が結局、最適なのかもしれない。だとしたら変化は無駄だ。答を出すつもりも、何の主張もありはしないが、多分私はどちらに転んでも楽しくやってる気がするので今回のエントリーって無責任極まりないような。あらら。