無意識日記々

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無理風日記

そうかそうか、やはり人間活動中であろうと様々なオファーがやってくるのね。ダメ元だろうとやはり話は聞くのかな。U3MUSICは今何人で運営してるか知らないが、ヒカルクラスになれば著作権管理会社からの報告を受け取るだけでも日が暮れるだろうて。半分比喩だけども、照實さんが暇になる事はあんまり考えられない、か。ちゃんと夏休み取ってね。今宵のツイートからでした。

さてさて。その照實さん曰わく「パーフェクト・バイリンガル」なHikaruさん。人間活動中にフランス語や手話なんかを身に付けていたら知らないが、ひとまず日本語と英語は完璧だろう。

言語の本質は方言である。"約束事"としてしか成立しないものなので、どれだけ扱う人間が多かろうがどこまでいっても言語はローカルなままである。その意味では英語がグローバル・ランゲージだというのも錯覚になるが、そこは逆に考える。誰にとっても外国語な言語、即ち母語をベースに習得した第二言語が存在するならばそれはローカルではない性質をもつ。生来獲得した第一言語はローカルだが、その言語によって獲得された言語はグローバルたりえる。

つまり、皮肉な事に、英語がもし地球のグローバル・スタンダード・ランゲージとして認められるならば、英語が母語の人間はローカルとグローバルを取り違える錯覚を起こす事になる。言語がローカルである事を忘れて生きていくのは、大変な誤解である。この罠は避け難い。

そう考えるので、私は、Hikaruが常に英語と日本語の両方を行き来して生きていくのは、コスモポリタンとして大変よい事だと考える。英語のみに特化した活動でも私は楽しめるだろうが、やはり2つ以上の言語の間の苦悩や葛藤が存在しないと真理の味を味わえないだろう。

ガラパゴス化とは、即ち、英語が母語である人たちと同じ錯覚の中に生きる事である。日本語しかない中で生きればそれは最早"約束事"ではなく、いわば自然法則と変わりがない。その中で我々は生きていく。その時に普通は市場規模だの自給自足だの地産地消だのというけれど、この問題にスケールは関係ないのだ。外部の言語と言語圏と相互作用があるか否かなのである。


今回は話がちょっと難しいかもしれない。締め切った部屋を想像しよう。空気が籠もってくるのを嫌がり、人は部屋の窓を開け、空気を入れ換え新鮮に保つ。この時、もし部屋が異様にだだっぴろかったらどうするだろう。部屋の中だけで空気はある程度対流し、なかなか籠もりはしない。しばらく経ってもまだだ。まだまだだ。さて、誰か部屋の窓を開ける者は在るだろうか。そもそも、部屋の窓がある所までが遠すぎて、いや、ひょっとするとここからでは窓があるかないかもわからないのかもしれない。多分、誰も窓を開けようとしないだろう。しかし、幾ら対流してかき混ぜているとはいえ、空気は僅かずつにでも澱んでゆき滞留してゆく。気が付いた時にはもう…

…。窓をいつ誰が開けるべきかはわからない。もしかしたら、蜂の大群が入ってくるかもしれない。どっちがいいかなんてわからない。なので、どちらが正解か、なんて事はない。

Utada Hikaruの場合。どんな部屋であろうとも窓は開けてしまいそうだ。そもそも窓のない部屋に住んでいるかもしれない。危なっかしいので、せめて蜂の大群が攻めてきた時の為に閉じれる窓くらいは…いや彼女の場合蜂すら魅了してしまいそうで怖い。人魚姫か。リトル・マーメイドか。確かにこの世界は、彼女のPart of Your Worldに過ぎないかもしれないけれどね。なんのこっちゃ。