無意識日記々

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"伝える"

文章の構成が素晴らしい。本名が阿部か宇多田かというのは誰にとっても判別のできる単純明晰な具体例である。その話から一気に『深い絆で結ばれた二人でした。』まで持っていく。"絆"というのは極々抽象的な観念であり、ある2人の間に絆があるのかどうか、そしてその深さはどれ位か、なんて事はちょっと距離のある人間にはなかなかわからない。普通は、「そんな、人と人の絆の深さなんて主観的にしか言えないよね」となるのだが、本名の話という"誰でも違いがわかる"所から持っていく為、此処の"絆"という言葉に異様な説得力が生まれている。この流れの無駄の無さといったらもう。痺れるぜ。

この流れの作り方、Hikaruのラジオ番組の作り方とよく似ている。まだ私も解説の途中だが、Episode4「インディーズ特集」の導入部分を思いだそう。彼女は、インディーズらしさという抽象的な観念を説明する為に、まず誰でも違いがわかる所から始めている。メジャーよりインディーズの方がアーティストの取り分が多い、というお金の話から、放送禁止用語という如何にもインディーズな「メジャーじゃできない事」を具体例として持ってきてから、一時間かけて抽象的な"インディーズらしさ"を解説していく。彼女のPop Artistとしての矜持、「入り口は広く、出口は一点。」を体現する見事な番組構成だったが、今回のメッセはそれをたった一段落で成し遂げている。この簡潔明瞭にして熟慮と閃きを感じさせる構成、やはり美しいと形容せざるを得ない。

恐ろしいのは、両方ともちゃんと"ヒカルの伝えたい事"、なのだ。片方を伝える為にもう片方を担ぎだしてきたのではなく、両方を伝えたくて、つまり、この場合だと母の本名と2人の絆についてなのだが、両方ともが相乗効果を生むようになっている。こうやって我々は出来上がった完成文しか見ておらず、それがあんまりにも明晰なのでその凄みはいまいち伝わりにくいかもしれないが、いざ白紙を目の前にした時に如何にこの境地に辿り着くまでが遠い事か。それこそ、毎日こうやって書いてる私はそこに果てしなささえ覚える。強い。

何を差し置いても、文章の精緻な技巧を支えるのは、伝えたいという情熱である。敢えて誤解される書き方をすれば、「どうしてわかってくれないの」と途中で怒り出す人は伝えたいという情熱が足りないのだ。ヒカルは、伝えたい事があって、それが"本当に"伝わるように、文章には技巧と工夫を凝らしまくる。何故ここまで文章が美しくなるかといえば、本当に伝えたいからだ。端折って纏めてしまえば、今、強い感情を感じているからこそ技巧を凝らすのである。神は細部に宿るとはまさにこの事を指している。その普段からのたゆまぬ技巧との対話の蓄積があれば、たまに感情が技巧を呼んでくる。そこまでいければ尚凄い。


若干、話が逸れた。今回のメッセを読んで感動した人は、もう一度Episode4を聴いてみる事をお勧めする。メッセージでもラジオ番組でも、ヒカルが"伝える"事に関して如何に天才的で、何より真摯で誠実であるかを実感しなおせるはずである。私もまた聴き直してみるとするか。